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新・読書日記185(読書日記1525)

  菅豊彦『道徳的実在論の擁護 (双書エニグマ 5)』勁草書房(2004)

■株式会社勁草書房

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  マイケル・サンデル『それをお金で買いますか 市場主義の限界』ハヤカワ文庫(2014)

■株式会社早川書房

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  リチャード・J.バーンスタイン『哲学のプラグマティズム的転回』岩波書店(2017)

■株式会社岩波書店

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日記

『それをお金で買いますか 市場主義の限界』の問いかけは法哲学の問いかけと重なるところがあり、考えさせられることが豊富になっていてページが良く進む。

ご飯がススムという美味しいキムチがあるが、読書がススムものはもう一冊の本だ。

  

メモ

(人口抑制策のトピックに触れて)

“しかし、出産の権利を売買すれば子供に対する欲得ずくの姿勢を促し、親子関係を腐敗させることになる。” P108

“出産許可証の市場は、どんな利点があるにしても、子供の割り当てを固定するシステムにはありえない仕方で、親子関係を腐敗させるのである。” P109

  

昨日か一昨日か、書いたか忘れてしまったが、保育園の迎えに遅刻する人に罰金を科すシステムを導入した保育園の話について触れた。

罰金を科すことによって、むしろ遅刻する親が増えてしまったのだそうである。

何故か。

これは罰金が料金に変わってしまったということになり、その結果遅刻への「うしろめたさ」が完全に消え失せたためと考えられる。

言い換えれば、遅刻によって罰金を科すことは、「遅刻するための料金」へと様変わりしたということになり、遅刻することへの考え方を変えてしまう。(罰金を科す=遅刻する権利の販売)

   

こういう例がもっと大きくなった例が、二酸化炭素排出量をめぐるビジネスなどだ。

マイケル・サンデルは以下のように考えていたが、経済学者から批判を浴びせられたという。

“私はこうも懸念した。裕福な国々がお金を払って自国の排出量を減らす義務を免れられるとすれば、環境にかかわる将来の世界的協力に必要な、犠牲の共有という意識が蝕まれてしまうのではないかと。” P110

  

経済学者は市場の力と合理性についてサンデル氏は全く理解していないと批判した。

  

市場に任せるということは、「規範」と「規範なき合理性」との交換

  

温室効果ガスの取引は、温室効果ガスに対する責任というものを「商品化」することに等しい。

それは保育園の話と似ていて、罰金が「遅刻するための料金」と同じ構造になっている。

このあたりはいろいろと考えさせられた。

ダフ屋には、ダフ屋がいることによって法の抜け穴や取引の構造的な問題を教えてくれる「先生」としての役割を持つ意義があり、『問いかける法哲学者』の著者はダフ屋規制反対論を展開していた。

いろいろな問いかけが絡み合い、立体的に物事が考えられるようになったような気がしなくもないが、深い問いだけに、答えは見つからない。

  

・・・

『道徳的実在論の擁護 (双書エニグマ 5)』

メモ

記述主義・・・・・道徳的判断の機能は記述にあると考える立場

  

ヒュームによる「理性」と「感受性」の区別

理性・・・・「真偽が問題になる知識」を与える

感受性・・・・「美と醜い、徳と悪徳が問題になる知識」を与える

   

直覚主義・・・道徳的判断は非ー自然的事態の記述であると考える立場

自然主義・・・・・道徳的判断は自然的事態の記述であると考える立場

  

自然主義はさらに二つに分かれる

・主観主義

・客観主義(=功利主義)

  

“価値判断は事実について述べるものではなく、真偽が問題になる命題ではない。それゆえ、このような判断については「知識」ということは問題にならず、判断を下している人は自己の主観的な道徳的感情を表明しているにすぎない。このエアーの立場を「情緒主義(emotivism)」と呼ぶとすれば、この情緒主義は非認知主義であり、道徳的判断に対応する道徳的事実は存在しないという意味で「反実在論」と呼ぶことができるであろう。” P31

  

ヴィトゲンシュタインと倫理

“六・四一 世界の中にはいかなる価値もない・・・・・・価値が存在するならば、それは一切の出来事や状態の外にあるのでなければならない。

六・四二 それ故また、倫理学の命題は存在しえない。

六・四二一 倫理学は超越論的である。” P34

 

“「主観は世界に属していない。それは世界の限界である。」”P34

  

倫理学を「超越論的」と見なすのはカントと同じではないだろうか。

超越的であるということは、つまり機械論の世界の外にあるということであり、意志の問題であり、自由の問題でもあるということだ。

  

偉大な哲学者が同じ判断を下しているところを見るとより説得力が増すというよりかは、ある種の感動を覚える。

  

・・・

  

規範がない世界というものを想像してみた。

それはつまり「~すべきである」という概念が存在しない世界である。

そうなると法律が機能しないことになる。

「汝、殺すなかれ」の信念も機能しない。

  

すべてが完全な自由になる世界ではあるが、無秩序な世界でもある。

無秩序であるということは、つまりエントロピー増大の法則と重なるので、もはや人間の存在が「物質」になるということである。

生命を生命たらしめるのは「負のエントロピー」を食べているからだともいえる。

ゆえに、無秩序な世界になることは、ただの自然界と同じになることを意味する。

これが規範なき世界の全てではないだろうか。

そう考えれば、倫理というものの生命的な意義、力というものが多少理解できる気がするのである。

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