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新・読書日記203(読書日記1543)

     尾久守侑『倫理的なサイコパス:ある精神科医の思索』晶文社(2024)

■株式会社晶文社

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仲正昌樹『新版 集中講義!アメリカ現代思想: リベラリズムはどこへ行くのか』NHKブックス(2024)

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スティーブン・ピンカー『暴力の人類史 上』青土社(2015)

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日記

『倫理的なサイコパス:ある精神科医の思索』

『暴力の人類史 上』に時間を割いたがこちらも少し読んだ。

「倫理的なサイコパス」の意味は、いろいろな事情を抱えた患者さんを毎日毎日何十件も診察するうちに、本気で介入しないと自殺の危険があるときや、患者からクレームめいたことを受けるときがあり、力の入れ具合をトリアージのように変えたり、後者のパターンでは業務に支障をきたす可能性もあることから(医師も人間なので)患者に「平等」に接することを「回避」し、診療を「最適化」するという意味ということであった。

   

平等に接しないことが患者「全体」にとっては利益になる。これが逆説めいてまた深いと思ってしまった。

平等に接すると人によって診察が40分になったりすることは確かにあるかもしれない。薬だけ欲しい人もいて、そういう人はさっさと済ませたいものである。

医療における「平等」と福祉における「平等」。

意味合いが変わるところがいろいろと考えさせられる。

   

・・・

今日は『暴力の人類史 上』をメインに読み進めた一日となった。

掘り上げた遺骨が何年前の人物なのか、死因は何なのか、ということが科学的に解明できるようになったということで、より実証的な暴力の人類史を描けるようになった。そして、10万人あたりの、暴力による死因が全体の何パーセントなのかをそれぞれの時代ごとに整理する。本書にはグラフが載っていて、見事に時代が経つにつれて減少し続けていることが判明。約8万年前は死因の半分以上を暴力が占めるというデータもあった。

個人的には、本来繁殖するべきはずの「種」が、暴力によって逆にどんどん母数が減っていき、それが進化論的にあまり合理的には思えないという疑問が残った。

  

メモ

“多くの場合、闘う者同士の暴力は戦争と呼ばれ、傍観者が戦う者に対して向ける暴力は法と呼ばれる。リヴァイアサンの理論をひと言でいえば、法は戦争にまさる方法だということだ。” P87

   

“前国家的状態にある人びとの暴力という点では、ホッブズやルソーの言うことはでたらめだ。二人とも文明以前の人間の生活については何ひとつ知らないからである。” P89

  

“文化人類学者のカレン・エリクセンとヘザー・ホートンは、政府の存在によって致命的な復讐が回避されるようになることを定量的に示した。” P121

   

戦闘で死亡する人間は時代の経過とともに確実に減少していったことは理解できた。

しかしリヴァイアサンの理論では説明ができない現象があった。

それは、法が暴力を上回ったとき、「刑罰」としての暴力が前国家的状態のそれとは明らかに残酷性が増したということであった。

皮肉にも人類は暴力を克服したかにみえたが、今度は「法」がそれに置き換わって人類を苦しめるようになる。(スターリンやロベスピエール等)

次からこのあたりが論じられていくと思うので内容の面白さに期待してみたい。

つづく

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