■株式会社藤原書店
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日記
昔の悪い習慣が見直されてきている。例えば体罰は今ではタブーとなり、教師が生徒に手を出した瞬間に首がとんでしまう世の中になった。自分の親の世代くらいまでは普通に学校で殴られるということがあったようである。
これは何を意味するのか。このことはスティーブン・ピンカー『暴力の人類史』と共通する文脈にあるのか。
そのあたりが無知な自分にはまだまだ理解できていない。社会は何を良しとし、何を悪しきものとするのか。
基準がさっぱり分からない。自分のなかのリベラル理解が不足している。ということで本書を読んでみることにした。
・・・
メモ
“今日のリベラリズムの「小さな政府」を見たら、昔の専制君主は羨み驚くだろう。何しろ市民運動や財政、国民の行動や思想まで監視しコントロールできるのだ。これほどまでに万能な権限は夢にすぎなかったはずだ。生活のあらゆる領域で政府活動が拡大しているので、リベラリズムが個人の良心、宗教、結社、言論、自己統治の権利を守るために誕生させた自由は、広範囲にわたって侵害されている。” P22
“個人中心主義を助長することによって、リベラリズムが個と公は一時的妥協を達成できるという考えは、自分を高めながら公共の物事に関心をもつ市民(cives)を欠いたまま、支配階級と一般市民をほぼ完璧に分離するという結果を招いている。” P24
・大いなる逆説
“リベラリズムが絶頂にあるこのときに、リベラルアーツ(一般教養課程)は猛烈な勢いで撤退している。(・・・)その代わりに選択されたのは、かつて「奴隷教育」と考えられていたものである。もっぱら金儲けや働く者の生活をテーマにしていたので「市民」の称号を与えられなかった者のために取っておかれた教育だ。” P28
➡STEM(science, technology,enginerring, mathmatics )
“フランスの哲学者ルネ・デカルトとイギリスの哲学者トマス・ホッブズは、相次いで次のように論じている。不合理な習慣と検証されていない伝統による支配ではーーーなかでも宗教的な信念と慣習はーーー恣意的な統治や非生産的な共倒れの戦いの原因であり、そのために政治体制の安定と成功を妨げていると。” P44
“主意主義とは、個人が束縛を受けずに自立した選択をすることをいう。” P50
”リベラリズムの哲学は人間が自制する必要性を否定した。” P54
“ところがリベラリズムの哲学は自由を、人が実定法の制約を受けない範囲内で自由に行動できる状態であると解釈する。こうした考え方は事実上、架空の自然状態の中の仮説にすぎなかったものを実在させ、人間にとって自然は個人主義の理論がそれまで以上に現実になる世界を形成する。(・・・)ホッブズの『リヴァイアサン』はこの現実を完璧に描きだしている。つまり国家が自立した個人のみで構成されると、そうした個人は国家に「抑制」されるということである。” P57
・・・なかなか暗い話が耳元に飛んできた。
井上達夫氏がリベラリズムは「正義」をなによりも価値とする考えだと書いていた。
ポリコレが過剰になり息苦しくなっているように感じる世の中はこの57ページの記述のことなのだろうか。
これはなかなか考えさせられる本だ。