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新・読書日記208(読書日記1548)

       内田義彦『読書と社会科学』岩波新書(1985)

■株式会社岩波書店

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   松岡正剛『千夜千冊エディション 観念と革命 西の世界観II』角川ソフィア文庫(2019)

■株式会社KADOKAWA

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公式X(角川ソフィア文庫)(旧 Twitter):https://twitter.com/kadokawagakugei?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor

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日記

「習慣化」という言葉が多少流行っているのか分からないが、こんな愚行が他に何処にあるのだろうか。

ジョン・スチュアート・ミルの「愚行権」の行使の分には問題ないのかもしれないが、これを本気でやろうとしていたら、それは本当に狂気の沙汰である。

何故ならば、夢中になれないものを無理矢理にでも、「夢中」にまではなれないまでも、せめて限りなく近づけようと「努力」してしまっているからである。

そして逆説の力が働き、ついには失敗するまで気がつかない。

仕掛け人は誰だ。自分はそこを考えてしまう。

  

・・・

『読書と社会科学』

この本は、安易に読書感想文を書くことを警告している。

しかしそれはどのレベルの人間の話なのか?

「読書感想文」という言葉を使うくらいなのだから、せいぜい中学生までを対象として語っていると推察する。

「読書感想文を書くための読書になってしまう」

しかしそこは自由ではないだろうか。書くことで読書体験が物語化され、記憶に定着する。何もしないよりましではないか。そんなこともこの本を書いた人間は想像がいかなかったのだろうか。と批判的になってしまうがそれは最後まで読んでからもう一度考え直したい。

  

メモ

“古典は、第一に、一読明快じゃない。二度読めば変る。むしろ、一年後に読んで、あの時はこう読んだけれど浅はかだった。本当はこう書いてあったんだあというふうにして読めてくるよう内容をもっていなければ、古典とは言えないでしょう。” P20-21

  

“(・・・)私が、古典としての読み意義を一方的に強調したのは、現在、本を情報として読む習慣があまりにも強く一般的になってきており、古典として読む習慣と技術が失われつつあると思うからです。それでは折角の情報が情報になりません。” P30

  

“深いところで著者を信じることは必要ですが、自分を捨てて著者にもたれかかっちゃいけない。” P41

  

・・・

『千夜千冊エディション 観念と革命 西の世界観II』

メモ

“ファウストは活動こそが生きがいの精神ロボットなのである。” P26

”加えて指摘しておかなければならないことがある。一言ですむ。それは『ヴィルヘルム・マイスター』の主題はおそらく「諦念」であろうということだ。日本流でいえば九鬼周造が「いき」と呼んだものに近い。” P29

 

諦念≒いき≒無常

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