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新・読書日記209(読書日記1549)

      塩野七生『マキアヴェッリ語録』新潮文庫(1992)

■株式会社新潮社

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日記

今日一番印象に残った言葉は、155項の以下の言葉であった。

“なぜ人々の心に自由に生きることへの強い愛着が生まれてくるのか、という問いへの答えは簡単である。歴史上、自由をもつ国だけが、領土を拡張し経済的にも豊かになったからである。ペイシストラトスの僭主制から自由になったアテナイが、わずか百年の間にどれほどの成果を生むことができたかは、まったく驚嘆に値する。これにもまして、王制を廃した後のローマがどれほどの隆盛を迎えたかは、驚嘆を超える事実である。理由は簡単だ。個人の利益よりも、共同体の利益を優先するようになったからである。たとえある政策の実施にあたって、個人は不利益をこうむるような場合でも、これによって利益を受ける人が多数ならば、その政策は実施されたのだ。そして、不利益をこうむる少数派が反対しても、それは全体の利益の前に沈黙するしかなかったのである。ーー『政略論』ーー” P155

  

しかし自分は全てを真に受けず、いったん少し考えた。

自由を持つ国。

それは何についての自由なのか。

難しいことは考えず、自分は思考の自由、言論の自由だと考えた。

  

今日の日本はどうか。言論の自由はあるか。実際のところ、少しずつ失われているように思える。

すぐに炎上する社会になっている。炎上が茶番だとしても、すぐに炎上して世の中に拡散されることは間違いない。

また、炎上することによって辞職を余儀なくされたり、最悪の場合は自死に追い込まれる人もいる。

そのような社会が自由な国と言えるかどうか。

自分は言えないと思えた。そしてそれが現代の行き詰まりのひとつとして数えられる原因なのだと自分には思えた。

  

井上達夫氏によると、リベラリズムは善よりも正義が先行するのだという。

つまり、自由(善)よりも正義が先行するのである。

実際そうかもしれない。

いま、なんでも言う自由はなくなりつつある。なんでも言いたい放題の有名人がどれだけ干されてしまったことか。

それは言うまでもなく、正義を装った、ある種の権力だと自分は見ている。

是非は問わない。ただ事実としてそういうことがある、と。

  

お互いがお互いを監視し合うような、奇妙な社会。歪な社会。

マキアヴェッリから学べることはいろいろとありそうな気がしてくるのであった。

  

・・・

メモ

“中ぐらいの勝利で満足する者は、常に勝者でありつづけるだろう。反対に、圧勝することしか考えない者は、しばしば、陥し穴にはまってしまうことになる。” P250-251

  

“わたしの体験からも言えることだが、人間の意見なるものがいかに偽りに満ち、いかに誤った判断でゆがめられているかは、呆れかえるほどである。なぜなら、地位ある人といえども野心と独断から自由でいられず、彼らに統治されている民衆も、所詮は為政者を写す鏡であるにすぎないからである。” P234

  

“相手を、どんなことにしろ絶望に追いこむようなことは、思慮ある人のやることではない。なぜなら、前途に望みを失った者は、どんなに悪い状態を示されても、それによって判断を変えるような冷静さを失ってしまうからである。” P238

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