スティーブン・ピンカー『暴力の人類史 上』青土社(2015)
ジャック・ロンドン『マーティン・イーデン』白水社(2022)
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日記
『暴力の人類史』を読むと教条主義の恐ろしさが伝わってくる。
教条主義は、西洋においては「イエス・キリストは絶対に正しい」という信念だと自分は認識している。
たちが悪いのは、裏を返せば「イエス・キリスト以外の教えは間違いである」という、キリストか、キリスト以外か、というゼロか百かの思考(白黒思考とも言われる)だ。
現代の常識ではこれは「認知バイアス」の一種ということになるが、中世ヨーロッパにはバイアスなんてものは存在しなかった。
教条主義に道徳もなにもないことが分かる。とにかく絶対的に正しいキリストの言うことだけを実行すればいいのだから。
そしてその帰結が中世から近代における虐殺の歴史となっていて、今日読んだところは拷問についていろいろと書かれていた。
なんでそんなことができるのだろうか、当時の人間の倫理観、価値観はいったいどうなっているんだ、と感じる現代人は教条主義という魔術から解放されているからだ、といえる。
教条主義を人類史的に考えると、「絶対に正しいことはない」と言う執行草舟氏の主張を違った観点から考えることができる。
絶対に正しいことはない、というのはつまり、「神は死んだ」に尽きるのではないだろうか。
絶対に正しいことはない、という主張は、「普遍的な真理は存在しない」ということを意味しないのではないか、と自分は今日思った。
普遍的な真理の存在までは否定しないとすれば、なぜ執行草舟氏が自分の信じていること、学んだこと、考えたことをあそこまで堂々と言えるのかが多少理解できる気がした。
自分なりの真理は掴んでいるのだろう。それが正しいかは保障はできないと言っているように聞こえるが、実は、正しいと確信していなければそこまでは言えないと思うのである。
自分はヘーゲルのことはあまり詳しくないが、各々の「正しい」と思っていることをぶつけ合い、弁証法的に真理に到達するという考えは、現代では陳腐なのだろうか。そうとは思えない。それは自分の経験の無さの裏返しでもある。
だからこそもっと歴史を読まなければならないな、と思う一日であった。
つづく