橋本摂子『アウシュヴィッツ以後、正義とは誤謬である: アーレント判断論の社会学的省察』東京大学出版会(2024)
ジャック・ロンドン『マーティン・イーデン』白水社(2022)
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日記
『アウシュヴィッツ以後、正義とは誤謬である: アーレント判断論の社会学的省察』
アーレントの本が乱立していてアーレントから現代に役立つ知見を提供したいという善意が、恣意的な解釈を許してしまうといったことが書かれていた。
確かに書店の本棚を見るとアーレントの本が沢山あるのが分かる。乱立している。この本もそのひとつかもしれないが、この本のタイトルになんとなく共感したので自分は久々にアーレント関係の専門的な本を読みたくなった。
メモ
“結論の先取りになるが、私はこうした理解の外延上で、アーレントの思考を、政治的理論であるよりも、カントを継承する政治批判として捉えている。カントが、まず理性の限界を示すことによってその上に形而上学を打ち立てる土台を作ろうとしたーーー結局土台のみで終わり、その上部が構築されることはなかったがーーーのと同様に、アーレントもまた、あらゆる政治の可能性の条件、つまり政治がいっさいの経験とかかわりなくア・プリオリに成立するための条件として<政治>を規定した。” P5
“(・・・)周知のように、アーレントは近代における公的領域の消滅を、私的問題の侵入によって公的領域が「社会的なもの(the social)」へと腐食していく過程とみなした。社会とは貧困からの解放を第一義とする場であり、「生命のための相互依存をのぞく何ものも公的意義をもたず、ただ生存にのみ結びついた活動だけが公的にあらわれることを許される形式」(HC : 46)である。” P22
“従来のリベラリズム的見地から導かれる権利要求型の政治運動では、平等で均一な主体理念を基盤に集団的権利が構成される。しかしそうした権利主体への依拠は、カテゴリー内部における支配的な多数派が普遍化されることによって、結果的に同一カテゴリーに属する人びとの間の差異を抑圧し、多数派への同一化を強調する。無数にある差異のなかで特定の差異だけを公的なものとして扱うことが、その差異の特権化を意味する以上、その背後はつねに、それ以外の差異を「私的領域」へと押しやる身振りーーーつまり自身の批判する当の認識論的暴力を反復する危険ーーーが隠されている。フェミニズムもその例外ではない。” P22-23
・・・
権力とはなにか。権威とはなにか。
それは忌避の対象でありながらも、人間の欲望の対象であるような、人類の矛盾が具現化された本能のシステムである。
『マーティン・イーデン』にもいたるところにこのことが散りばめられている。
だからこそこの作品は偉大なのである。