新藤雄介『読書装置と知のメディア史: 近代の書物をめぐる実践』人文書院(2024)
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日記
残業が増え、本を読むのは電車と夕食後の少しの時間だけになってしまった。
それでもなんとか本書の序章、50ページほど読み終えた。
本書の読み方は多様にあると思われるが、自分はあるひとつの読み方に絞った。
自分は半ば毛嫌いしている、ビジネス書コーナーによくある古典や名著を1冊で分かる(分かった気にさせる)本を、メディア史などの観点から実証的にその効果や有用性、意義などについてこの本を読みながら考えてみたいと思った。
大学で英作文を習った人なら分かるのは、余計な文章は削ぐというのが定石だということである。
つまり、ひとつひとつの章のひとつひとつの文章は、あってしかるべき文章であって、取るに足らない文章などひとつもないはずなのである。
言い変えると、要約不可能な状態で本全体が構成されていなければ意味がないのである。
それを無理やりコンパクトにまとめるものだから、逆説的にまとまるどころか、逆に不明瞭な点を多く残してしまうのではないかと自分は思っている。
省けば省くほど、説明しきれない点が出てくるということである。
圧縮不可能性と表現すべきか。そういうのが本の条件、前提だと思われる。
そういうことを本書を読みながら、時間の許すがかぎり追求してみたいとは思う。(時間があれば、、、)