佐藤貴彦『男女平等は男女を幸福にしない』パレード(2024)
牧田俊樹『「障害とは何か」という問いを問い直す――「事実」から「有用性」に基づいた障害定義の戦略的・実践的使用へ』生活書院(2024)
日本法社会学会『法社会学の最前線』有斐閣(2023)
ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち 上』白水社(2010)
シルビオ・ロルッソ『デザインにできないこと』ビー・エヌ・エヌ(2024)
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■株式会社パレード
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■株式会社白水社
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■株式会社有斐閣
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公式X:https://x.com/YUHIKAKU_eigyo?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
■株式会社生活書院
公式HP:https://seikatsushoin.com/
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■株式会社ビー・エヌ・エヌ
公式HP:https://bnn.co.jp/
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『男女平等は男女を幸福にしない』
※やや下の話を含んでいるので読んでいて不快に思う点があるので注意をお願いします。
まず率直に、読み終わって思ったのは、なにかを変えようとして理論を構築するとダブルスタンダードや矛盾というものが生じやすいということである。これは常に自分にも降りかかり得る問題なので気を付けたいと思った。
(本書ではフェミニズムの自己矛盾というものが至るところに散見される。)
中立でいることは傍観者であって、何も言わないに等しいという考えを自分は支持する。
なのでこの本について中立に書こうという、ある種の保身めいた感想文は書かないように決めた。
この本を不快に感じる人は一定数いるかもしれない。しかしながら、最後の天皇論は分かりかねたが、その他の内容に関してはかなり妥当性のある議論に思えた。
批判の対象は上野千鶴子氏、宮台真司氏、鈴木涼美氏と、社会学者に向いている。
自分はこの三名から多くのことを学んだうえ、リスペクトしているので人格と彼らの議論は分けて考えることにしている。
偶然このサイトにたどり着いた方はそのあたりを誤解しないようにしていただきたい。
・・・
田嶋陽子氏、上野千鶴子氏、鈴木涼美氏の共通点について
細かい点については本書を実際に読んでいない人には誤解される可能性があるため、そのあたりは割愛したい。
この三名には奇妙な共通点がある。本書では母親に対するコンプレックスという説明がなされている。抽象的なのでまず著者がフロイトの学説を借用しながら考察していたくだり引用したい。
“フロイトによれば、母親との愛情関係は、それが全ての原型であるから、母親との関係が異性関係に反復される。(・・・)したがって、女性の異性との関係を考察すれば、同時に母親との関係を推測することができるし、またその逆も可能である。” P126
このくだりは、男性憎悪の源泉が母親憎悪の裏返しであることを言わんとしている。
このあたり、いろいろと突っ込みどころは多いが、この三名の書いた本をそれぞれ自分も過去に読んでいるのでうなずけるものがあった。
鈴木涼美氏の男性嫌悪のくだり、上野千鶴子氏の結婚への憎悪のくだりなど、明らかに常軌を逸している。これはこの本を読んだ人なら理解できるはずである。
それが母親憎悪に回収される。このあたりは個人的に、ある種、著名人への攻撃ともとれるので、自分は深入りしないことにする。ひとまずフロイトの学説も部分的には考察の材料としては意義あるものだと自分は思うようになった。
・・・
売春の必要悪問題
著者によればアウグスティヌス、トマス・アクィナス、ゲーテと同時代のナポレオンの三名は売春が必要悪だと考えを持っていたとされる。
封建制の強い大昔は、上流階級とそうでない階級で完全に分かれていた。
封建時代の売春は、上流階級が下の階級を買っていたという構造になっているとされる。
日本においても大昔はヨーロッパと同じように、売春は必要悪と認識されていたかどうかは知らないが当たり前のように行われていたとされる。
ところが1990年代は援助交際が社会問題となり始める。
歴史的に問題とされるかどうかは波があるにせよ、なぜ平成に再燃したのか。著者は、一億総中流の台頭によって上流⇒非上流の構造が崩れたことによるとした。
“つまり、人類の歴史上、長い間続いていた「良家の子女」と「遊女・売春婦」との間の垣根が崩れてしまったかのように思われたのである。このことが、援助交際が社会問題として認識された大きな理由だったと考えられる。”P136
宮台真司氏は独自の研究スタイル(フィールドワーカー)としてこのことを研究した。河合隼雄が「売春は魂に悪い」といったのに対して上野千鶴子氏と宮台真司氏は嘲笑していたと著者は書いていた。
しかし宮台真司氏のとったサンプルには問題点があったとされ(データのとり方、議論のもっていきかたがやや雑)、著者は「売春をするものは精神的に病んでいる」と書いていた。自分もその立場を取る。
鈴木涼美氏は男性に対して明らかに認知バイアス的状況を生んでいる。(男性という生物を信じられなくなったといったくだり。そもそも鈴木涼美氏が実際に相手にしていたのは変態しかいないのだから、そんな人間を信じられなくなるのはある意味当たり前であると著者は書いていたが、自分もそれは正しいと思っている。)
自分は過去のブログにこのことを書いたが、河合隼雄が「魂に悪い」と言っていたことは間違っていないと今でも思っている。ただ、鈴木涼美氏についてはあれこれ批判はしたくないのでこの件はここでおしまいにしたい。
この本を読んで一番良かったことは意味不明であったラカンの思想が部分的に分かったことであった。
ラカンは意味不明な数式っぽいものを使ってシニフィアンがどうだ、シニフィエがどうだと展開している。
制服に欲情する人間についての考察でようやくラカンの言わんとしていることが少し理解できた。
結論から先に書いてしまったほうがいいかもしれない。
タブーが欲望を生むということであった。禁酒法を想起させる。
人間の本能、とくに性欲は動物のそれとは違い、明確な目的(種の保存)を持たない。(繁殖期がないので)
しかし、すべての男の性欲がゼロになることは、種の絶滅を意味する。
それを回避するために禁止⇒欲情というものを「生命維持装置」として作為的に作らなければならない、といった話が進んでいく。ここはかなり考えさせられた。
「わいせつ」とは何か。端的に生殖器として設定することによって、タブーが生まれ、欲望が生まれる。
著者は「わいせつ罪」の存在理由は性的機能不全を回避するためとした。
賛否はあるだろうが、自分には妥当性がかなりあるように思われた。いろいろな社会現象はこの考えを応用できる。
欲望の対象がなぜ制服にズレていくのか。
まずラカンの言葉を引用する。
“幻想が欲望の支えです。対象は欲望の支えではありません。たえず複雑さを増してゆくシニフィアンの集合との関係で、欲望するものとして自らを支えています。” P173
次に著者の言葉を引用。
“(・・・)欲望は常に変転する欲望の運動してのみ存在する。これが象徴界における男性の欲望と快楽の構造なのである。” P172-172
女性性器⇒下着⇒制服
これが「変転する欲望の運動」ということが分かる。また、ラカンのいう「幻想が欲望の支えです」も合点がいく。
突っ込みどころはそれでもなお残るし、著者に肩を持っている感が否めないのでひとまずここまでにし、考察したくなればこの本のことを思い出して考えてみたいと思った。
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新・読書日記259(読書日記1599)
『デザインにできないこと』
メモ
グラマトロジー・・・・書差学。書かれたものを文明の根本として重視すること
ヴィクター・パパネック「デザインとは意味のある秩序を課すための意識的で直感的な努力である」
・・・
『「障害とは何か」という問いを問い直す――「事実」から「有用性」に基づいた障害定義の戦略的・実践的使用へ』
この本は福祉の本とはいえ、哲学書である。かなり深い内容を持っていて、内容は重い。
今日はクワインとローティのくだりを読んだ。なかなかに意義のある読書時間であった。
メモ
クワインの全体論について
“これらを踏まえて、丹治は、「ホーリズム」(全体論)は、一つ一つの命題の<意味>はその「検証の方法」として決まる、という「意味の検証理論」を否定するだけではなく、そもそも「ことばや文にはそれぞれ一定の<意味>がある」ということを否定すると主張するのである(・・・)つまり、経験との対応から一義的に言葉(言明)の意味が定められるのではなく、受け入れている理論体系・信念体系から言葉の意味が構成されるのである。” P72
“結局、障害とは何かをめぐる対立は、依って立つ理論体系・信念体系の違いに過ぎないのである。” P73
・・・
ローティと真理について
■ローティの定義する「真理」
⇒「言明と事実との対応」
■ローティの定義する「事実」
⇒「実在と対応するもの」
実在・・・・・・人間の思考、観点、意見から独立しているもの
⇒「〇〇は××である」という「言明」が「事実」と対応すればそれは「真理」とみなせる