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ロマン・ロラン『ベートヴェンの生涯』読了+新・読書日記272(読書日記1612)

   

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日記

小学生の頃はバカにしていたベートヴェンは、幸福の追求よりも、己の限界を試すことに賭けた精神的な人間だった。

「睡眠時間以外は休息ではない」という言葉にしびれた。

気力、知力、体力が全盛期を迎える三十歳前後に己の全てを捧げる構えをみせるベートーヴェン。

音楽の芸術的な価値について自分はまだあまり理解できないが、苦悩を受け入れて芸術へと昇華させていくベートーヴェンの生涯を見つめ、自分もそうなりたいという憧れを持つことが出来た。

自分の場合、芸術的な素質に欠けていると自覚しつつあるので、自分が成せる仕事というものに集中したいと、読み終わって思った。

仕事といってもサラリーとしての仕事だけではなく、日々の活動を含めた総合的な仕事、アーレントでいうならば活動、労働、仕事を全て含めた生命としての仕事のことである。

メモ

“みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。ーーー私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。” P109

  

・・・

『ジャック・リゴー遺稿集』

“我々に残された、人生に対して軽蔑を表す方法はただ一つ。そいつを受け入れることだ。人生などわざわざ捨てるにも値しない。(・・・)不満や絶望など、せいぜい人生にしがみつくための新たな理由にしかすぎない。” P20

  

“具体的目標のない欲望。不可能なものへの欲望。ここに名称と形を兼ね備えた苦悩と、見も知らぬ自己誘発的な苦悩との境界線が聳え立っている。” P21

  

“考えること、それは死を考察することであり、決断をくだすことである。ーーーさもなければ、私は眠っている。睡眠にこそ称えあれ。” P25-26

  

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『自由と理性』

ヘア「普遍化するということは理由を示すことである」

ヘア「自由に思考し行動するものだけが指図的な言語を必要とする」

  

・・・

『法哲学講義』

“国内法上位説は帝国主義的イデオロギーに対応し、国際法上位説は平和主義のイデオロギーに対応するが、純粋法学自体はそのような政治的イデオロギーに立ち入るものではないーーー。このようにして純粋法学の理論家としてのケルゼンは中立的な立場をとるが、彼の政治的立場が国際法上位説であることは明瞭である。” P96-97

  

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『正義のフロンティア』

「負荷なき自我」について

“このように、まさにこのような契約の観点が、「正常なしかたで生産的」な市民たちのあいだにある「正常」の多様性と、ある人びとを器質的損傷という特別な範疇に入れてしまうタイプの多様性とを、区別する方向へと強く導くのである。ロールズはこの区別を明らかに是認している。” P123

⇒障がいがある人も生産的になれるような社会の仕組みづくりを模索する試みは、ヌスバウムによれば失敗に終わるという。

  

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『アーロン収容所』

イギリスの残忍さについて

“問題はその復讐の仕方である。日本人がよくやったような、なぐったり蹴ったりの直接行動はほとんどない。しかし、一見いかにも合理的な処置の奥底に、この上なく執拗な、極度の軽蔑と、猫がネズミをなぶるような復讐がこめられていたように思う。” P65

  

・・・

今日は気になる本をひらすら読みまくる一日であった。

『アーロン収容所』も執行草舟氏の影響で読み始めた。

日本人を河の近くの収容所に入れ、飢えさせ、毛ガニ(病原菌入り)を食べさせて血を吐かせて死なすという、間接的な暴力は合理性に潜む狂気のようなものを感じさせた。

また、当時の白人は白人以外を人間とみなしていないということがよくわかる一冊である。

(白人女性は裸でも目の前にいるのが日本人であれば何も感じないと書いてあった)

  

・・・

今日は昨日の延長線上で、障がい者と仕事についていろいろと考える一日であった。

昼食時、タイムリーにNHKが障がい者雇用について特集をやっていた。

現場の経験上、自分はミスマッチが多いように感じている。

明らかに事務仕事に向いていない人が事務仕事をやり、事務仕事に向いていないことが分かってから急に気が滅入って休みがちになるというパターンを自分は何例か見てきた。

   

人間関係で病み、パニック障害になったり鬱になったりすることは自分も経験したので理解はできる。

しかしながら、自分はたまたま事務仕事に向いていたので助かったが、対人関係の仕事がきつい、かつ事務仕事もきついという障がい者は行き場をなくしているように自分は感じている。これはなんとかならないのだろうか。

こういうことを考えていくと、支援とは何か。何が支援なのかと問わずにはいられない。

就労移行支援ではPCなどのスキル向上のプログラムがあると聞く。

そこで訓練を積んでからA型作業所に挑む、という流れを作った人は割と適応しているように感じるが、全てそううまくいくものでもない。

就労移行支援は賃金が発生しないので、生活がかつかつの場合敬遠されがちであり、そのなかで働かないといけないが普通の職場では適応できないという人が行き詰まりを見せているように自分は感じている。

そういう人たちになにができるかということを日々考えるが、そこは干渉する必要はないのかもしれない。

どこまでが本人の問題で、どこまでが社会の問題なのか。

そういうことは現場の経験をもっと積まないと見えないかもしれない。

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