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日記
仕事柄、障がい者福祉関係に興味があり、今季の冬は立岩真也さんの本を読み漁って障がい者福祉と生命倫理学の理解を深めた。その後タイムリーに新刊で出たピーター・シンガー『新・動物の解放』を最後まで読んだ。
その後、執行草舟氏の思想に触れながら死生観、生死について自然と考えるようになった。
そして積ん読になっていた池田晶子『魂とは何か』を読んだ。
自然と『死とは何か』という本にも関心が向いた。
この本で書かれていることを確認したいという気持ちも強かった。
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メモ
“政治、経済、そしてやがては戦争に至るまで、「社会の約束事」とは、お互いに取りあえずは、「人生とは夢ではない」「明日というものは来る」ことにしておこうではないかという、迷える意識同士のささやかな取り決め以上のものではない。私たちがそのひと言の前には、それが葵の御紋であるかのようにひれ伏してしまう「現実」ということばは、その程度の確かさしかもっていないのだ。そのことに気がついたなら、「自由」は一歩、近くなる。” P16
“死によってこそ生は輝く。私はそう思います。死ぬことを恐れて、先延ばしされた生よりも、死を思って生きられる毎瞬のほうが、はるかに充実しているのです。” P19
“現代人が、自分の孤独を空虚であると感じることの理由のもうひとつ、逆説的ですが、自分を何者かであると思うことに慣らされすぎているということがあるでしょう。(・・・)ふとした拍子に、役回りではないところの自分とは何者だろうと、人は不安を覚えることになります。” P36
池田晶子と執行草舟氏は似たようなことをよく書いているのが分かる。
まず、科学の暴走に関して二人はよく批判している。池田晶子は利便性によって人生が空疎になっていることをいろいろなところで書き、執行草舟氏は還元不能物質と関連付けてよく語る。
また、二人とも小林秀雄と埴谷雄高、西田幾多郎をよく読んでいる点。執行草舟氏は小林秀雄と直接話したことがあるそうで、池田晶子は埴谷雄高と親交がある。
思想のベクトルと表現すべきか、厳密には違うところがそれぞれあるが(池田晶子はプラトンのイデア、言葉の絶対性を信じている。反面、執行草舟氏は相対主義に近く、善悪の絶対性を認めない)、「垂直的な思考」といったことをよく二人は語る。(池田晶子は右でも左でもなく、自分は縦だと書いている。執行草舟氏は垂直思考という言葉で語る。)このあたりが読者としては非常に興味深いと常々思う。
また、仕事に対する構えもほぼほぼ似ている。
“といって、仕事そのものについては、絶対に妥協しない。そこで妥協しては、そもそもの仕事をしている意味、すなわち「生きている意味」がなくなるからです。これを私はまた強い言い方ですが、「覚悟」という言葉で呼んでいます。P63
池田晶子は言葉で食べているため、絶対に妥協しないことを宣言していた。池田晶子にとって仕事を妥協することは「善く生きる」ことの放棄につながる。言行一致しなくなり、文章を書く意義が失われる。
執行草舟氏はソクラテスについてあまり言及しないが、『葉隠』の生き方を貫徹するという一点にのみ、結果的にそれは「善く生きる」に通ずるだろうと思われる。いまどきこういった考えを表明する著述家は少ない。そういう意味で二人は稀有な存在といえる。
“「考える」ということと、なんらかの情報を分析するということは、まったく違うことです。情報はどこまでも外から与えられる情報であって、どんなに巧みにそれを分析して整理してみても、そこから本質は出てこない。情報は本質にかかわるものではないのです。” P202
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池田晶子は現象としての死は認めたが、論理としての死は認めなかった。
“つまり、死体は、見えるものとしてそこに存在していますが、死そのものは、死体から死を取り出せるものではないのです。その意味で、死は存在していない。死体と死は違うものなんですね。死体の中には死は無い。ここは非常に間違えやすいところです。脳死問題でもめるのは当然です。なぜかというと、存在していない死というもの、つまり、無いものを決めようとしているからです。在るものは決められますけれども、無いものは決められませんね。” P230
西洋は物質主義であると執行草舟氏は何度も書いていた。
物質主義という言葉は抽象的で言葉の意味には解釈の幅があるが、ここでは「精神も何らかのメカニズムで解明可能である」と思い込んでいる科学の態度を指していると考えてよい。
科学は今も実証主義の流れになっており、基本的に定量的である。ゆえに、「死」も何らかの物質に還元して説明されることを必要とする。しかし論理的にそんなことはできるのだろうか?それが脳死問題の根本にあると池田晶子は語ったが、ここには確かに科学の歪というものを感じる。
これからもウィルスが脅威になる以上、ある意味科学も脅威になるかもしれない。
混乱を極める情報社会の時代、俯瞰するには幅広い見識が必要になる。考えることの大切さを改めて認識し、死生観というものも自分なりに固めていきたいと思うようになった一冊であった。
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『わが生涯 上』
共産主義に興味はないが、社会を変えたいという情熱で生き切ったトロツキーの生き方に関心が向いた。
今日は学生時代の記録について読んだ。
メモ
“私は、印刷された文字の世界に入りはじめた。詩を書き写したり、自分で詩を書いたりした。” P99
“生活は、日ごとにどころか、時間ごとに広がっていった。食堂の穴の開いた長椅子から、見えない糸が別の世界に向かって伸びていた。読書は私の人生に新しい時代を切り開いた。” P102
“その他の人生において遭遇した興味深いもの、心を魅了するもの、喜びを与えるもの、心を痛めるもののいっさいが、すでにこの読書体験のうちに、一種の暗示や約束事として含まれていた。” P137
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『生きる勇気』
メモ
“これは、フロイトのいわゆる「死の衝動」(Todestrieb)と厳密に同じことをいいあらわすラテン語である。彼は、人生を無意味無益なものと感じる人びと、旧約の伝道の書にあるような「新しき何ものもなしえず、新しき何ものも見えぬ」人びとについても語っている。こういった在り方は、セネカによれば、快楽原理のゆえに起こる結果であり(・・・)フロイトにおいても死の衝動は充足されないリビドーの否定的局面とみられているが、セネカにおいても快楽原理は必然的に生の嫌悪と絶望とに導くのものである。” P26
“運命と死とに対する不安は、生への意志を喪失した人間の生を支配するのである。” P26
“もし勇気が倫理的概念としてのみ理解されるならばそれが自己充足的な喜びと関係をもっていることはあきらかにされないであろう。自己の本質的存在を肯定するという存在論的行為においてのみ、勇気と喜びは結び合うのである。” P30
一度手放してしまった『生きる勇気』には、神学的な洞察と哲学的な洞察が相乗効果を生み出し、読み手に考えを促すものとなっている。
つづく