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新・読書日記306(読書日記1646)

   

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日記

昨日考えたことを多少進めてみた。

Whyの問いに対しては二種類の回答があることを確認した。

REASON(主観的)、HOW(物理的メカニズム)の二つとなる。

自分なりに考えてきたことが『下半身の論理学』にも同じことが書かれていた。

三浦さんは『虚構世界の存在論』という本を書いていて、凄まじく賢い。

ちょっとだけ自信につながった。正しく考えれば必ず皆、同じ道にたどりつく。ヘーゲルの絶対精神とはこういうことなのか、とちょっとだけ有頂天になった。

   

・・・

しかしながら疑問は深まるばかりであった。

ブックオフに行くとフランクル『夜と霧』が目に入った。

「人生の意味を問うのでなく、意味が人生になにを問うているのかを問え」といった、やや禅問答めいた箴言で締めくくられていたと記憶している。

しかし「意味」というものを深く考えれば考えるほど、いっそう謎が深まる。

人は問う。人生にいったい何の意味があるのか、と。

しかし、そもそも意味がいかにして形成されるのか、これは哲学集団の天才たちでも結論が出ていない。

   

昨日は、意味は言語を使用する目的である、というヴィトゲンシュタインについて考えた。

自分は「理由」と「目的」が似ていることにきがついた。

Whyの問いは「理由」で説明がつく。理由は目的を説明するである。つまり。理由と目的はほぼ等しいのである。

  

・・・

書きながら思い出した。ChatGPTは「常に目的が存在するとは限らない」と言っていた。

無目的な行為に対して言語の使用とは何を意味するのか。今日はこの点について考えること忘れてしまっていた。

  

・・・

人生になんの意味があるのか、と言うとき、人はいったい「意味」について何をわかっているのだろうか。と考えると、この問い自体に意味を見出せなくなってくる。

天才たちがどれだけ考えても「意味」の本質まではたどりつけていない。

だからといって、意味にそこまでこだわる必要もないとも思える。

言語の本質を理解していなくても社会はまわる。これは何を意味するのだろうか。

何かに似ている。

人は、歩くとき「いかにして歩いているか」をあまり説明できない。

ここの筋肉をこうして、脳がその指令を云々、、、

そういうのは括弧に入れている。そして、その中身を知らなくても歩くことができる。

それと似ていて、「意味」の本質を知らなくても言語を使用することができる。

そうではないだろうか。

このあたりまで考えて明日暇があれば考えてみたい。

言語の意味はそれを遂行する目的である、とするとき、無目的な行為に対して言語の使用とは何を意味するのか。

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