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日記
昨日、自分は以下のように日記に書いた。
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自分は「理由」と「目的」が似ていることにきがついた。
Whyの問いは「理由」で説明がつく。理由は目的を説明するである。つまり。理由と目的はほぼ等しいのである。
・・・
書きながら思い出した。ChatGPTは「常に目的が存在するとは限らない」と言っていた。
無目的な行為に対して言語の使用とは何を意味するのか。今日はこの点について考えること忘れてしまっていた。
・・・
人生になんの意味があるのか、と言うとき、人はいったい「意味」について何をわかっているのだろうか。と考えると、この問い自体に意味を見出せなくなってくる。
天才たちがどれだけ考えても「意味」の本質まではたどりつけていない。
だからといって、意味にそこまでこだわる必要もないとも思える。
言語の本質を理解していなくても社会はまわる。これは何を意味するのだろうか。
何かに似ている。
人は、歩くとき「いかにして歩いているか」をあまり説明できない。
ここの筋肉をこうして、脳がその指令を云々、、、
そういうのは括弧に入れている。そして、その中身を知らなくても歩くことができる。
それと似ていて、「意味」の本質を知らなくても言語を使用することができる。
今日はこの考えをもう少し進めてみた。
理由のない目的は存在しない。これは間違いなさそうである。では常に人生に目的が存在すると言えるか。
しかしながら、ChatGPTに言われたように、人間の全ての行為には目的が必ず伴うと考えるのはあまりにも根拠として弱い。
背理法を使って考えてみた。
生まれてから死ぬまで、人生における行為ひとつひとつは、最終目的へ向かうための目的の連続で満ちている。これは真か。
明らかに成り立たない。何故ならこれが真であるためには、生まれた瞬間から人生に目的が存在していなければならないからである。目的は意志によるものであるはずだ。従って、目的のない行為は存在する、これは真になる。
目的のない行為には当然「理由」も存在しない。
ゆえに、無目的に発せられた言葉の意味が存在する。
これがヴィトゲンシュタインの言葉の意味の定義「言葉の意味とはそれを使用する目的である」は常に成り立つとは言えない。
ここまでは理解した。
そして次に入る。
では、いったい言葉の意味はいかにして形成されるのか。
自分は、立岩さんの本の言葉を借りたい。つまり、この問いに向き合うこと自体、何か罠にかけられている感じがするのである。
昨日、歩くことを物理的なメカニズムから説明できなくとも、普通に人は歩けることが、言葉の意味を感覚で使っていて、その本質までは知らなくても問題ないことと似ていると書いた。
今日も考え、「言葉の意味はいかにして形成されるのか」。この問いはナンセンスに思えた。
じゃあどうやって考えてみるのがよいか。
ここで思考を止めるのは自由ではあるが、言葉の意味について何も理解は深まらない。
もう少しだけ前に進んでみたいと思った。
そしてひとつ見えた。
自分は『言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム』を読んで、言葉の意味が「即興」で形成された可能性について思いをめぐらせた。つまり、言葉の意味は通時的に考えなければならない。
そう考えると、言語哲学者は共時的に詰めようとしてはいないか。そう思えたのであった。
本気で言葉の意味を考えようとすれば、それは言語の形成された太古の資料を読み漁って現代まで調べ尽くさなければならない。とても一人では取り扱えないテーマではないか。「意味の考古学」みたいなことをしないといけない。
意味は自然発生的に生まれる。そう考えれば、既に存在している言葉のひとつひとつを検討していかなければならない。ここに、人間が「言語学」なるものと称して言葉の意味を分かろうとしていくプロセスの限界を感じさせられるのであった。
今日はこのあたりまではたどりついた。
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『本、そして人』
メモ
第二次世界大戦前、アメリカでドイツのユダヤ人と出会った神谷美恵子
“「アメリカでヒルティ愛好家と出会うなんて思ってもみませんでした。ヒルティは私の一生の指導者なのです」(・・・)「アメリカにも善意の人はたくさんいますけれどね。理想の美しいことばを並べるだけで、このきびしい現実のなかで理想に従って生きることの大変さを知らないのです。ヒルティは祖国の政治の要職を歴任してきたから、その大変さをつぶさに知っていたのです。彼の思想に説得力があるのは、現実での苦難にうらづけられているからなのです。」そういうゾルマン氏も現実の政治の世界で苦悶してきた人なのであった。” P28-29
フーコーについて語る神谷美恵子
“フーコーの歴史とは、つねに、彼のいう「考古学」であって、この本も『狂気の歴史』も、『ことばともの』も、一貫してアルケオロジーと自称している。すなわち「歴史の厚みの中から、歴史を可能ならしめた諸条件を発掘する」方法である。” P51
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『わが生涯 上』
レーニンと決裂したトロツキー
“私は自分を中央集権主義者だと思っていた。だが当時の私は、幾百万の大衆を旧社会との戦闘に引き入れるために、革命政党にとってどれほど厳格で有無を言わさぬ中央集権主義が必要であるかを、完全には理解していなかった。” P323