■株式会社白水社
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■有限会社月曜社
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『個人と社会』
感想
オルテガの本はこれで2冊読み終わったことになる。
内容自体はそこまで難解なものではなかったが、通勤時間、帰宅時間(電車)だけでほぼ最後まで読んだのであまりメモを残せなかった。メモを残せなかったことで本全体への理解度、知恵として定着することが著しく困難となることを肌で感じ取ることができた。ただ、電車で読まなければ最後まで読めなかったかもしれない。
前にも書いたが、単純な単語であればあるほどその説明のためには膨大な量の説明が必要で、膨大な量の文章(論文等)に対してはわりと短めの文章で説明が可能になる。意味と量をめぐるこの反比例のような関係はオルテガによって見事に説明されたように感じた。
鶏が先か卵が先かというのは、ある意味何も言っていないに等しい。意味が先か、言葉が先か、もしかり。そうではなく、オルテガは言語の起源を人と人との対立からさぐっていき、個人に刻まれる社会的なもの、社会的なものでありながら非個人的なものをわりだし、個人と社会の性質及びその差というものを、ある程度は明確に定義したように感じた。
本書は社会心理学を言語の観点から学びたい人、または言語学を社会という広い視野から学びたい人にとって学びの友となるだろう。
自分は「人は一度積んだ本、放置した本は二度と読まない、断言する」と言ったある作家の迷言に反撥を覚え、一度積まれても読めることを証明するために本書を読んだようなものだ。オルテガの本はしっかりと、精読していかないとなかなか身につかない。でも今はそんなことはどうでもいい気分だ。スッキリした。
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『意志の倫理学』
メモ
目的の国
➡定言命法は様々な形で定式化されるが、究極的には普遍化の定式に集約される
・普遍化の定式
普遍化を意欲することが可能な格率に従え
・目的の定式
人格を手段のみならず、目的として扱え
・目的の国の定式
目的の国の成員として行為せよ
アイヒマンは虐殺に加担した理由として、組織の命令に従ったためと弁明した。
カント倫理学においては、組織の命令は絶対だと自分は思っていた。中島義道氏は、カント倫理学に従えば世界を滅亡させる行為も普遍化可能になると書いていたそうである。著者はアイヒマンはカント倫理学が破綻していると書いていた。このあたりがふわふわして自分には分からなかったのでAIに聞いてみた。
カントについて、いろいろと誤解していると反省。
・・・
カント倫理学では、組織の服従は絶対で、組織への批判は仕事を終えたあとの、私的な範囲で行うべし、と書かれていた記憶がありますが、いかがでしょうか
ChatGPT:
あなたの記憶にあるような「組織への服従は絶対で、批判は私的に行うべき」という考え方は、カント倫理学の一般的な解釈とは少し異なる部分があります。ただし、誤解が生じやすい点でもあるので、少し丁寧に見てみましょう。
カント倫理学の基本的な考え方
カントの道徳哲学の中心には、「定言命法(Categorical Imperative)」があります。特に重要なのは以下の2つの定式です:
- 普遍化可能性の原理:「あなたの行為が、すべての人にとっての普遍的な法則として成立するように行動せよ」
- 人格尊重の原理:「人間を単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱え」
公務員に対するカントの言及(あなたの記憶の出どころかも)
あなたが記憶しているのは、カントの著作『啓蒙とは何か(Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?)』(1784年)に書かれている、公務員(特に宗教職など)と「公的使用」と「私的使用」の区別かもしれません。
カントは次のように述べています:
- 「理性の公的使用(public use of reason)」:自由でなければならない。これは学者が読者に向かって語るときのように、一般に対して理性を用いて意見を述べる行為。
- 「理性の私的使用(private use of reason)」:制限され得る。これは職務上の立場で、組織内の一員として理性を使う場面。たとえば兵士や税務官、聖職者が、任務に従って上の命令に従うときなど。
つまり、仕事中(私的使用)には命令に従うべきであっても、個人として社会に対して意見を述べる自由(公的使用)は保障されるべき、という立場を取っています。
誤解されやすいポイント
カントは「組織に絶対服従せよ」とは言っていません。むしろ、理性を使って物事を批判的に考える自由が啓蒙の核心だと強調しています。ただし、組織の一員として任務に就いているときは、その職務を全うする責任がある、という現実的な態度も併せ持っています。
要約
あなたの記憶はおそらく、カントの「理性の公的/私的使用」の区別に基づいていると思われます。ただし、それは「組織への絶対服従」を意味するものではなく、「職務上は従い、個人としては自由に批判しうる」というバランスのとれた思想です。
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もし関心があれば、該当部分の原文や現代語訳も紹介できますよ。読んでみたいですか?
あなた:
ありがとうございます。理性の公的使用、私的使用の具体的な例を出して、わかりやすく説明していただけないでしょうか
ChatGPT:
もちろんです!カントの「理性の公的使用」と「理性の私的使用」の違いを、わかりやすくするために、いくつか具体的な例を挙げてみますね。
✅ 理性の公的使用(public use of reason)
- 意味:市民として、自由に理性を使い、自分の考えを公に表明すること。これは「学者としての発言」や「言論の自由」のことです。
- カントの主張:この使用は「常に自由でなければならない」。
✍️ 例1:牧師が本を書いて宗教制度を批判する
日曜日には教会で説教をしている牧師が、個人の名前で「現代の教会制度は古くなっている」と論文を書く。
→ これは理性の公的使用。彼は個人の立場で理性的に社会に意見を発しているからです。
✍️ 例2:教師が教育制度についてSNSで発信
学校で勤務中は教育カリキュラムに従って教えているが、プライベートでは「今の教育制度には改革が必要」とブログで発信する。
→ この発信は公的使用。勤務中は従っていても、社会に向けた理性的な批判が認められています。
✅ 理性の私的使用(private use of reason)
- 意味:ある役割・組織に属する立場での発言・行動。秩序の維持のために、自由が制限されることがある。
- カントの主張:この使用は「場合によって制限されてもよい」。
✍️ 例3:税務署員が独自判断で税法を無視する
「この税金は不公平だ」と思って、税務署員が勝手に法律と違う徴収方法をとる。
→ これは理性の私的使用であって、許されない。公務員としての職務に従う義務があるからです。
✍️ 例4:兵士が命令を拒否して独自に戦術をとる
命令に納得がいかないからと、兵士が勝手な判断で動いてしまう。
→ これも私的使用。組織内では命令に従う必要があります。
🔁 カントのメッセージまとめ
カントはこう言っています:
「理性の私的使用には制限があってもよいが、理性の公的使用は常に自由でなければならない。これこそが啓蒙の核心である」
つまり、「組織の一員としての義務と、市民としての自由な理性の使用は、矛盾しない」という立場なんです。
もっと身近な例で考えてみたいテーマはありますか?(例:会社員、医師、公務員、教師など)
あなた:
私的使用に制限があってもいいのはなぜでしょうか
ChatGPT:
とても良い質問です!「なぜ理性の私的使用には制限があってもよいのか?」という問いは、カント倫理学の実践的な側面を理解するうえでとても重要です。
🔍 理性の私的使用に制限があってもよい理由(カントの考え)
1. 秩序の維持のため
私的使用とは、「社会の役割・職務の中で理性を使うこと」です。たとえば、軍人、税務職員、教師、医師など、それぞれの立場で任務があります。
📌 カントは、「社会の仕組みが機能するためには、その役割に従って行動する必要がある」と考えます。
もし皆が職務の中で自由に理性的判断をして勝手に行動すれば、組織や社会の秩序が崩れてしまいます。
2. 「役割に基づいた制限」は自律を損なわない
カントは「自由」や「自律(Autonomie)」を重視します。でも、それは「好き勝手に振る舞う自由」ではなく、「自分の理性に従って行動すること」が真の自由だと考えます。
📌 だからこそ、役割の中で一時的に自分の判断を保留して「職務に従う」ことは、理性に反することではないとされます。
3. 公的使用の自由を守るためのトレードオフ
カントは、「公的使用の自由が保障されるなら、私的使用に一部制限があってもよい」と考えます。むしろ、職務に従うことで社会全体が安定し、その上で自由な言論空間が成立するという前提です。
🧠 たとえばこんな風に考えると…
- 🧑⚖️ ある裁判官が、「法律は不合理だ」と思っても、判決では法に従わねばならない(私的使用の制限)。
- しかしその裁判官が、論文や講演で「この法律はこういう理由で変えるべきだ」と主張するのは、公的使用として許され、むしろ望ましい。
✅ 結論
理性の私的使用に制限があってもよいのは、
🔹 社会秩序を守るため
🔹 役割を引き受けること自体が理性的だから
🔹 公的使用の自由が保障されていれば、理性は全体として自由に働けるから
という理由からです。
このあたり、現代の「公務員の守秘義務」や「企業のコンプライアンス」ともつながる考え方ですが、そちらも気になりますか?
あなた:
カント倫理学に従う場合、上司が不正をしていた場合、どうするべきでしょうか
ChatGPT:
素晴らしい問いです。この問題は「忠誠と良心」「職務と道徳」の間で板挟みになるような状況であり、まさにカント倫理学が試される場面です。
🧭 カント倫理学における判断のポイント
カント倫理学では、行為の正しさは「その行為が定言命法に従っているかどうか」で判断されます。つまり:
その行動を誰もが同じようにしても正しいと思えるか?(普遍化可能性の原理)
他人を手段としてではなく、目的として扱っているか?(人格尊重の原理)
🔍 この原則をもとに考えると…
仮定:上司が不正(例:経費のごまかし、公文書の改ざんなど)をしている
- 不正行為を見て見ぬふりをすることは、「自分が都合よく沈黙することが普遍的に正しいか?」と問えば、ノーですよね。
- また、組織の秩序を守るために沈黙する場合、その秩序が他者の尊厳を踏みにじっているのであれば、人格尊重の原理にも反することになります。
❗つまり、不正を知りながら黙っていることは、カント倫理学に照らすと不道徳とされます。
🧑⚖️ カント倫理学に従うならどうするべきか?
✅ 原則的には:
不正を告発(内部告発)する義務がある。
これは、組織への「服従」よりも、「道徳法則への忠実さ」が上位にくるためです。
💬 カント自身の言葉から補足
カントは、「理性に従って行動すること」が人間の尊厳であると繰り返し述べています。
つまり、道徳法則に従って「たとえ不利益があっても正しいことをする」ことこそが、人間の自由であり尊厳なのです。
☝️ ただし、実践的な注意点も
- カントは理論上、どんなに不利益でも「道徳に反することはしてはならない」と言いますが、現実には内部告発者は組織からの圧力や報復を受けることもあります。
- そうした現実的なリスクは、カント倫理学では「道徳とは別問題」として扱われます(つまり、それでも正しい行為をすべきだ、という厳しい立場です)。
✅ まとめ
カント倫理学に従うなら、上司の不正を見逃してはならず、勇気を持って正義を貫くべき
(たとえそれが自分にとって不利益であっても)