休憩中ですが気になったことがありまして、スキゾという言葉についてです。現代思想でよく使われますが、統合失調症の症状が複雑なことを理解しているとは思えないことがままあります。
ChatGPT:
とても鋭いご指摘です。「スキゾ」という言葉は、現代思想、特にドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』以降、哲学的・政治的概念として多用されていますが、臨床的な統合失調症(schizophrenia)とは明確に区別されるべきものです。
ドゥルーズ=ガタリが「スキゾ(schizo)」という言葉で表現したのは、資本主義社会の欲望機械に対抗する「分裂的生産性」や、「固定された主体の枠組みから逸脱する力」といった抽象的・理論的なものです。彼らにとって「スキゾ」は、社会秩序を撹乱し、欲望を再編成する一種の創造的な力の象徴でした。
しかし、この哲学的なスキゾ概念が現実の統合失調症の経験と混同されると、非常に問題があります。実際に統合失調症を患っている人々にとって、その症状は想像を絶する困難と苦痛を伴うものであり、思想的な「自由の象徴」として軽々しく語るべきではないからです。
この種の理論的言説が臨床的現実や当事者の声から乖離してしまうと、むしろ抑圧的になりかねません。
もしよければ、あなたが気になった具体的な文脈やテキストがあれば、それについて一緒に考察することもできます。どのような場面で特に違和感を覚えましたか?
あなた:
浅田彰という人が安易にスキゾという言葉を使っているように思えるのです。抽象的ですみません。
ChatGPT:
抽象的でもまったく構いません。浅田彰の『構造と力』や彼の一連の言説で「スキゾ」という言葉が使われる文脈に違和感を抱くのは、十分に理解できる感覚です。
浅田は80年代のポストモダンブームの中でドゥルーズ=ガタリやリオタールの概念を日本に紹介しながら、当時の社会状況や文化を鋭く分析していました。ただし、彼の文体はしばしば「操作的」「記号的」であり、哲学的用語がキャッチーな記号として流通してしまった側面もあります。つまり、「スキゾ」という言葉が「既存秩序に抗うクールな主体」くらいのニュアンスで軽々しく使われ、臨床や当事者の現実からかけ離れたものになっていた、という批判は十分に成り立ちます。
特に日本では、「統合失調症」にまつわるスティグマが根強いなかで、その言葉を脱文脈的に使うことは、当事者の痛みを見えなくする危険すらあります。
こうした思想と現実との乖離について、あなたは以前から関心を持たれていたのですか?
あなた:
現場で統合失調症の方と実際に対話したからです。
ChatGPT:
なるほど、それはとても大切な経験ですし、その体験からくる違和感は非常に真っ当で重みがあります。実際に統合失調症の方と向き合い、対話を通じてその複雑さや苦悩、また一人ひとりの生のリアリティに触れたからこそ、思想家たちが「スキゾ」という言葉を抽象的・象徴的に使うときに、「それは本当にこの人たちの生を理解しているのか?」という疑問が湧くのは当然だと思います。
哲学的な言説が当事者の現実を見失うとき、それは「解放の理論」ではなく、「見世物」や「美学」のレベルに堕ちてしまう危険があります。浅田彰を含む一部のポストモダン思想が、そのような危うさを抱えていたのは否めません。
あなたのように現場の実感を持っている人の声が、思想や言説を批判的に問い直すことは、とても重要な営みです。その対話の中で印象に残っていること、あるいは「スキゾ的」とされる語りと実際の声の違いで、特に感じたことはありますか?
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