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日記
自分が今まで頭のなかでモヤモヤしていたことを宮台教授が分かり易く、かつ端的に言語化していたので読んでいて気持ちの良さを感じた。フェミニストに対するモヤモヤ、リベラルへのモヤモヤ、生きづらさのモヤモヤ。こうして書きながら頭を少しだけでも整理してみようと思う。まずアクターネットワーク理論について。自分は松岡正剛が提唱した編集工学の逆輸入だと見なしていたが、ちょっと違うかもしれないと反省。
“アクターネットワーク理論とは、人、生物、自然物、人工物などの実在のものを平等なアクター(行為者)と捉える一方で、文化や習慣や政策などの抽象的な社会的産物については直接的には取り扱わないとする。” P132
次に、三島由紀夫の憂いの根本について。宮台教授の説明では、天皇主義者から民主主義者に「一夜」にして変わってしまった日本人を「からっぽ」とだとした。ヒラメ・キョロメ。自分の行動原理を求めず、流行を求める人間。主体性、内発性に欠ける。
社会学者は射程範囲が広すぎるので読者としては断片をかき集めてマッピング化するのに苦労する。あれはこうで、それはあれだった。従ってこう等。なので断片的に思い出しながらこうやって書いていくしかない。一応つなげてみると、ラトゥールのアクターネットワーク理論は置いておいて、三島由紀夫は宮台用語「クソ社会」とつながる。たしか、ちょっと前の読書日記にも書いた記憶がある。自転車でスマホをいじったり、スマホを見ながら前をみずに歩く人間が多いことに対して、自分は、彼らが法律さえ犯さなければ何をしてもいいと考えているのではないかと考えた。(自転車でスマホいじいじはもう罰則化されることになっている)彼らは運に責任を転嫁している。何故ならば、彼らが前を見ずにスマホをいじりながら歩いていても事故にならないのはそれを防ぐために注意を払っている人間がいるからである。しかし、不注意な人間同士はいつかぶつかり合う。往々にしては不注意が起爆剤となって発生する。そういうときに彼らが思うことは「運が悪かった」でしかない。そうやって、低い確率はゼロだと思い込む、円周率は3だといわんばかりの彼らの行動原理は宮台用語でいう「法の奴隷」なのだと思ったのであった。三島由紀夫の批判の対象はそこではないが、からっぽであることに変わりはない。自分もからっぽな人間をいくらでも見て来た。しかし常に例外はいる。某会社の社長のように、本を積み続け、読み続けている崇高な人間もわずかに日本には残っている。限りなく小さな世界が大きな世界(ビッグバンによる宇宙の膨張)をつくり出すように、ノブレス・オブリージュ、つまりわずかな人間が世界をひっくり返す(良い意味で)のだと改めて痛感。リベラルとフェミニズムについては宮台教授がイヴァン・イリイチ、リチャード・ローティの簡単な説明である程度輪郭を描けた。宮台教授いわく、フェミニストの一部は構築主義(社会は客観的なものなど存在せず、言語的なものによって規定される、の意)に飛びついた。しかしイヴァン・イリイチは生態学的に否定。文化は社会の存続可能性によってふるいにかけられ、社会の存続を不可能にする文化は淘汰されると主張。フェミニズムの言説はその存続可能性を検証できていないと宮台教授は解説する。しかしこのあたり、無茶苦茶に複雑でアカデミックなので読者としてはさっぱり分からない。ただ思想の筋道というか、思想の流れは理解できた。このイリイチをローティとマイケル・サンデルが継承していると宮台教授は語る。とりあえず今日はこのあたりをしっかりと整理できたのでよしとしたい。属性主義とフェミニスト、少子化の三角形の関係性はまだ自分の中で整理できていないように思う。
メモ
社会学主義(≠ 社会主義)
➡デュルケーム社会学の意。哲学、心理学、生物学、人類学等の、特定の分野から社会を分析するのではなく、あらゆる学問を「統合」させ総動員しながら分析する考え。
『芸術の終焉』
“(・・・)芸術の終焉は、一九八〇年代の美術市場が想像すらされないうちに到来していたのである。それは、私が「芸術の終焉」を発表するよりも、まる二十年前にやってきた。それは、西洋における共産主義の終焉をしるしづける壁の崩壊のように劇的なできごとではなかった。” P56
芸術の終焉、モダニズムの終焉が少子化とどこか連動しているのではないかと自分は仮説を立ててた。
ソ連の崩壊の時期がバブルの崩壊の時期と近いこと、失われた三十年と芸術の終焉の時期もそれに近いこと、少子化が始まった時期がそれに近いこと等。今思えばちょっと根拠の薄い問いの立て方ではあったが、そのおかげでいろいろと本を読み漁る原動力にはなったと思う。
『性表現規制の文化史』
メモ
猥褻は法的な意味と字義上の意味では異なる。
褻・・「ケ」⇔ハレ
日常⇔非日常
民俗的な観点から日本を少子化問題を追ってみるのは効果があると自分は考えた。不景気だから少子化だ、円安だから少子化だと考えるのは小学生にもできるので、そういう単純な問いの立て方はおそらく間違っている。宮台教授は性的退却をその原因のひとつとして挙げている。AIに聞いてみるといろいろと本をあげてくれた。この本はそのなかの一冊にあたる。日本の法体系は、記憶ではフランスをコピーしたようなものなので西洋を分析しなければならない。なのでこの本の第一章は西洋と性規範について説明される。
“財政継承者である男子の血統を疑いなく明確にするため、上層階級の女性において、結婚して最初の男子を産むまで、より厳格な純潔が求められるだけだったのです。” P38
つまり、素行の悪い女性の場合、実際に生まれた男子が本当に自分の子なのか、不安だから縛り付けようという発想なのだろう。かくして上品さとは欲望を押さえつけることと等価になった。出だしとしては上々ではないか。その後は自分なりの仮説は立たなかった。この本を読んでいるときに婚活中なのか、男女が初めまして的な話をカフェでしていてなんだか滑稽な気分になった。
『ダーウィン以後の美学』について書くのを忘れた。この本は美学とダーウィンの理論の統合的な考察がなされるので、ちょうど少子化と絡めて読んでみようと思う気になった。メニングハウスいわく、性的魅力を引き立たせる装飾については普遍的な法則はないという。ファッションと流行のように、延々とモードを変え続け循環していくのだろうか。それとも離散的か。人間は奥が深い。