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新・読書日記450(読書日記1790)

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日記

昨日、書ききれなかったメモを今日書いてみたいと思う。

『読書と人生』

“トルストイの『我が懺悔』が文学青年の間にも大きな影響を見出すような時代であった。これは私も感激をもって読んだ本である。私はいつのまにか『芸術とは何ぞや』におけるトルストイに共鳴を感じるようになっていった。彼の『人生論』なども感動させられた本である。私の場合かようなことは中学時代に耽読した徳富蘆花の影響によって知らず識らず準備されていたといえるであろう。私も一時は或る種のトルストイ主義者であった。去年の夏、満州を旅行した時、汽車の中へ岩波文庫版の『イワンの馬鹿』、『人は何で生きるか』というような当時愛読したトルストイの小品を持ち込んで久し振りに読み直してみたが、今度はそれほど深い感動を覚えることができなかった。私はそこに何か気取りに似たものを感じた。” P29

  

自分も昔はトルストイの人生論を読んだなと、これを書きながら思い出した。ただトルストイはあまり好きではない。どことなく功利主義者のような匂いがした。

昨日読み終わったカントの本について。カントはよく机上の空論として揶揄されがちだそうである。それは理論に徹し過ぎて再現性がないからだとか、理想論だとかといったことがあげられる。しかし、何らかの目的を持たずに行為をすることは可能なのか?と筆者は問いかける。無目的の行為はそれ自体が目的だったりするし、もしくはそれ自体が何かの意味をもっていたりする。「それやる意味ある?」の質問の裏には目的への問いが隠れている。「やる意味」は「やる価値」とも受け取れる。価値に客観性はなく、主観的に決まる。ゆえに価値は意味で、意味は目的、従って目的に客観性を持たせることはほぼ不可能だと遡及して主張することはできやしないだろうか。詭弁だろうか。

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