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日記
一週間の後半戦が始まる。今日は帰宅後に仮眠(90分程度)を取った。中途半端な時間に仮眠を取ると夜眠れなくなると言われるが、身体のいう事に耳を傾けるのもときには大事だと思う。そして仮眠から目覚めた今、今週いろいろとあった出来事に思いをめぐられせ、書きたいことがあるので、まずはいったん書いてみて整理してみようと思った。
批評の存在価値について
おそらく偏見と思われるかもしれないが(そもそも批評家と日々交流できないので分かるわけない)、批評家の問題意識は何処から発生するのだろうか?と問うてみると、結局、彼らはその出発点が本の世界なのではないか、と思えてくる。医者は仕事をしながら日本の課題であるとか、患者の問題であるとか、そういうものが実務から拾える。学校の教員は家庭の問題であるとか、子供の生活の問題であるとか、そういうものが実務から拾える。銀行であれ中小企業の問題であるとか、政策の問題であるとか、そういうものが実務から拾える。では批評家はどうなのか、と問うと、そもそも彼らは本を読んでその書評を書くことが仕事であるので、彼らは本から問題を発見していくわけである(あくまで私の想像上)。そうではないだろうか?結局日々の問題意識というものは、往々にしてそのメインは仕事を通じてではないか。もちろんプライベートを通じてなんからの問題意識は生れて来るであろう。しかしその比率はどうしても実務から生まれて来るのではないだろうか。そうでなければ、いったい誰が仕事で何も問題意識を持たないままその業務にあたれるのだろうか。ということを考えさせられた。で、このこと(批評家のあれこれ)は別に悪いとは言っていないし、むしろ本からでしか拾えない問題も数多にあるだろうと自分は想像することができる。ただ、この文章を書いた以上言わなければならないのは、本の世界はこんにち、どこまで現実的問題でありうるだろうという点だ。このことはゲンロンの東さんに問うてみたい。あなたは本という世界からなにについていかにして解決していくのか。フィクションをどこまでノンフィクションに落としこめるか。こう書いてみると「いや、ゲンロン読めよ」と言われてしまうだろうけれども、、、いや、それは分かります。失礼しました。まずはゲンロンをしっかり読んでから批評について語りたいと思います。
ということで、いったん批評の問題は置いておこう。今週は実務でいろいろとあった。リカバリーとはなんぞやということを再度考えさせられる。『精神障害を生きる』では、単に「一般就労」することがリカバリーにはなり得ないということについていろいろと書かれていた。自分は、A型就労支援がただの「作業を提供する場であり、それ以上でもそれ以下でもない」空間と思えてならない。相談というのは表向きというか、建前上は「相談」はするが、その相談はやはり傾聴に徹する事しかできないし、介入(実際に行政の手続き等を代行する)まではいかないだろうし(少なくとも今の自分の経験では)、なにか金銭的な問題が発生して精神的に病んでいる人に対して、私たちは結局無力でしかない。飢えた人間の前に文学は役に立たないと言われたような、ある種の絶望感を感じる。このジレンマ、いったいどう解決させればいいのか。今日は到底解決策はみえない。上の人たちは本当に適切な支援を実現させられているのか、自分はどうなのか、と、なんだか自信が少しずつ消え失せていく嫌な感じを胸に抱いている、そんな、湿度の高い陰湿な梅雨のように、自分も心が湿っている。
今日、誰か政治家が不倫だとかなんだで会見かなにかあったらしい。
転売と同じで、感情でいろいろと物を言う人が多いと思う今日このごろ。
ヤフコメの「共感した」の数が多い上位者の意見をみると、不倫が原因で亡くなってしまったため、今回の事例は重く受け止めなければならないといったことが書かれていた。感情的にそう言いたいのはわかる。人間だからそれは分かる。ただ、因果関係の不定性を考慮せずに(つまり、不倫と自〇の因果関係が厳密に検証されていないので曖昧だということ)、なんだか不倫が全ての原因だと言わんばかりの意見・風潮はまずいと自分は考えている。倫理は運に依存するというのだろうか?厳密には、法でさえも運に依存する。『責任という虚構』にそのことが嫌というほど書かれている。だがそんなんでいいのだろうか。バーナード・ウィリアムズを読まねば。