■株式会社光文社
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日記
学問への渇望。いまそんな気持ちを抱く小学生がいったい何人いるのだろう。お勉強でもなく、受験勉強でもなく、学問をだ。単なる知識のバイキングになり果てた受験勉強は学問ではない。あれはエゴイズムだ、アラカルトだ、人生はアラカルトではない。人生はバイキングでもない。私たちは、知識の断片を選び取り、切り離し、消費することに慣れすぎている。だが、ベイトソンが言うように、知識とは「関係のパターン」を理解することにほかならない。つまり、学問とは孤立した情報の集合ではなく、それらが織り成す相互作用のネットワークを見抜くことなのだ。この意味で、受験勉強というシステムは、情報の「内容」だけを重視し、その情報同士の「関係性」や「文脈」を無視してしまう。だからこそ、それは単なるアラカルト的な選択のゲームに堕してしまい、学問の本質である「パターン認識」と「自己修正的フィードバック」の回路を断ち切ってしまう。人生はまさに、このパターンの無限の連鎖のなかにある。どこかで一つの要素を取り出し、孤立した意味だけを追求しても、その全体像は見えない。学問の渇望とは、世界という巨大な自己調節システムの中で、自分自身がどのような役割を果たしているのかを感じ取り、問い続けることに他ならない。だから、教育がもし本当に意味あるものになるなら、それは子どもたちに単なる知識の断片ではなく、その知識が持つ「文脈」と「相互関係」を体感させる経験を提供しなければならない。学びとは単なる情報の集積ではなく、自己を含む「生きたシステム」との対話なのだ。もしこのシステムの感覚を取り戻せば、学問への渇望は再び命を吹き込まれるだろう。世界のパターンの中に自らの存在を見出し、そこに問いを投げかけること。それが学問であり、それが生きることなのだ。