新・読書日記501(読書日記1841)
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日記
サルトルの小説が150ページを超えたあたりかた少しずつテーマが自由になりつつあったので、若干読むのが面白くなってきた。
自由とは強制からの自由(消極的自由)がノージックの基本スタンス。フロムに言わせればその自由は不安を誘発し、全体主義の萌芽となる。金さえあれば何もかもから解放される、自由だ、という考えが消極的自由の根源。この究極はFIREの思想であり、虚無であり刹那であり、自己家畜化の典型。
「自由のためなら不幸をも受け入れる」とChatGPTがノージックの代弁。リバタリアンは無人島で生活すればいいのだろうけれども必ずしも全員がそうしていないだろうし、実行する人はかなりの少数派だと思われる。ここでノージックに対する懐疑が生まれる。ただ、まだ表面的なノージックしか理解していないので、時間があればもっと読んでいきたい。
それに対し積極的自由はいかにしてその妥当性を持ち得るのか。
そもそも積極的自由とは何か。自分なりに考えてみたところ精神的な自由だと考えた。
そもそも、自由と幸福が無意識に、意識の底ではつながっている気がした。
ここが見誤っている。
幸福は幸福でその本質がある。それを執行さんから再度学ぼうと思った。
幸福と愛は相容れない。愛とは自己犠牲であり、宇宙は自己犠牲で成り立っていると執行さんは語る。
自己犠牲とは不幸を厭わない。それを人は幸福とは言わない。それは現代的な物質主義の眼鏡のゆえん。
何かに似ている。
権利は歴史的に自らが勝ち取るものであった。今ではあって当たり前とみなされるようになった。
幸福は自らが勝ち取るものであった。今では追求して当たり前とみなされるようになった。
アナロジーを駆使しして読み進めてみようじゃないか。
・・・
『モラル・エコノミー』
“(・・・)人々は、インセンティブがない場合よりもある場合のほうが、時としてより利己的な仕方で行動する。” P22
・・・・・・したがって、人間はすべて悪党と想定されねばならない。というのは正しい原則である。しかし、同時に、事実において誤っている原則が政治において正しいというのは、少し奇妙に思われる
デヴィット・ヒューム『道徳・政治・文学論集』より
“経済学者たちによって市場を「完全にする」ために必要であるとみなされる政策が、市場をうまくいかなくさせる可能性があるという逆説的な思想は、市場を超えてあてはまる。” P23
我、考えないことを欲しない。ゆえに、我、考える。
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