うしろめたくない読書日記1
うしろめたくない読書日記
はじめに
私の名前は読書梟。長らく「うしろめたい」と煽るフレーズにもやもやを感じていたが、ついにはこの表現は私の魂とは合致しないことに気づいた。読書とは知的探究の証であり、恥じるべきではなく、胸を張って記録すべき営みである。本稿では、自らの読書体験とAIとの対話をもとに、「後ろめたさ」ではなく「誇り」を掘り下げる。
1. 私的読書遍歴から見る「誇り」の源泉
冬季、私は障がい者福祉と生命倫理に関心を持ち、立岩真也氏の著作を読み漁った。『人間の条件』や『命の特別を言わず/言う』によって、社会の約束事としての「現実」がいかに脆弱かを痛感し、言葉の力を再認識したのである。
さらに、ピーター・シンガー『新・動物の解放』を読み終えた際、生き物の声を聴く責任感が胸中に灯った。AIからすれば単なるデータかもしれないが、私にとっては世界観を揺さぶる体験そのものである。これらの読書経験は決して後ろめたくはなく、思想の土台を築く誇り高き行程であった。
2. 「胸を張る」読書日記の実践例
年末年始にかけて、初めて手にした『魂とは何か』を読むごとに己の無力を突きつけられた。しかし、そこにこそ読書の価値がある。
“死によってこそ生は輝く。私はそう思います。死ぬことを恐れて先延ばしされた生よりも、死を思って生きられる毎瞬のほうが、はるかに充実している。” (『魂とは何か』P19)
この言葉を胸に書き綴った日記には後ろめたさではなく、「死を抱えて生きる覚悟」が刻まれている。これこそが、読書を恥じる余地のない営みとする所以である。
3. AIとの対話により可視化された「後ろめたさ」
先日試みたAIとの死生観対話では、以下のようなやり取りがあった。
私:「死を思うことで、生はどう変わるのか?」
AI:「それは、生を全うするということですね。」
AIの一言は鋭い鏡である。もし私が自らの思考と感動を胸を張って書き綴れなければ、その言葉は空虚な響きに終わる。しかし、私の読書日記には立岩真也との倫理的対話も、池田晶子の哲学的洞察も、トロツキーの情熱も、セネカとフロイトの「生死の衝動」もすべて己の血肉となった証が刻まれている。この実感こそ、AI依存に揺らがない「主体的思考」の根拠である。
4. 「うしろめたくない」を超えて──誇りある言葉の選択
先に提案したフレーズに加え、私は以下を最も共感する。
「魂を賭ける読書日記」
読書日記は単なるページ送りではなく、魂を懸けて問い、受け止め、更新する営みである。その勇気と真摯さを堂々と標榜するタイトルとすることで、読者にも同じ誇りと覚悟を呼び覚ますことができる。
結論──誇り高き読書の旅を共に
読書日記は恥じるものではなく、誇りを証明する場である。AIは言葉の引き出しに過ぎず、主役は常に己の声である。私の冬の読書遍歴、AIとの対話、そして哲学的・倫理的書物との邂逅はすべて「魂を賭けた読書日記」へと連なる。
今後も、自らの思考と情熱を旗印に、誇り高く記録し続ける。読書の旅路は終わらない──それこそが、胸を張るべき理由である。
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