新・読書日記522(読書日記1862)
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日記
「自由」というタイトルがつく本をむさぼり読んでみた。
まずは佐伯氏の『自由とは何か』からの引用を。
“「自由」についての論争が続くということ自体、いかに今日の日本では「自由」が切実なものではなくなってしまったかを示している。” P17
自由のパラドックス
“そのパラドックスとは、「自由」についての議論は、「自由」について正面から論じれば論じるほど、「自由」そのものは遠ざかってしまうということ、このことである。” P19
自由を渇望しているとき人は自由について論じている場合ではない。だから本当に必要とされている「真の自由」について、それを欲していない間には絶対に得られないということであった。
本当だろうか?歴史をたどれば、それは消極的自由の獲得だっただけではないのか?あらゆる強制から解放されることを人々はのぞんだ。そしてそれが市民権を得、いまは昔と比べて相対的に人々は消極的自由を得た。つまり、、、佐伯氏の言わんとしたことは、本当の自由は消極的自由と対立するもの、つまり積極的自由のことなのではないか。
ちょっとAIに聞いてみよう。
自由のパラドックスという言葉についてご存じですか
ChatGPT:
思考時間: 2 ~ 3 秒
「自由のパラドックス(paradox of freedom)」という言葉はいくつかの文脈で使われていますが、代表的なのは次の3つです。
- 政治哲学における「自由の二重概念」からの派生
- アイザイア・バーリンが『自由の二元論』で示した、
- 消極的自由(他者から干渉されない自由)
- 積極的自由(自己自身によって自らを律する自由)
- ここで生じる“自由のパラドックス”とは、積極的自由を追求しすぎると「国家や指導者による強制的介入」を正当化してしまい、結果的には消極的自由を大きく制限する可能性がある、という逆説的状況を指します。
- アイザイア・バーリンが『自由の二元論』で示した、
- 心理学・社会学における「選択のパラドックス」
- バリー・シュワルツらが提唱した「選択のパラドックス(Paradox of Choice)」では、
- 選択肢が増えれば増えるほど、決断が難しくなり、満足度が下がる
- これも「選択の自由(=多くの選択肢を持つこと)」が人を幸福にするとは限らない、という逆説として扱われます。
- バリー・シュワルツらが提唱した「選択のパラドックス(Paradox of Choice)」では、
- エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』
- フロムは、個人が伝統や権威から解放される「自由」の獲得が、同時に「孤立」や「不安」を生み、むしろ他者や体制に依存したいという欲求を強める、という心理構造を指摘しました。
- これも一種の「自由のパラドックス」と見ることができます。
――以上のように、「自由のパラドックス」は文脈によって微妙に意味合いが異なります。ご関心があるのは、政治哲学(バーリン流)のお話でしょうか? あるいは日常の「選択の多さ」にまつわる逆説的現象についてでしょうか? もう少し具体的にお聞かせいただければ、より深くご説明できます。
あなた:
佐伯氏『自由とは何か』で自由のパラドックスについて言及されています。
ChatGPT:
思考時間: 7 秒
佐伯啓思氏は『自由とは何か―「自己責任論」から「理由なき殺人」まで』(講談社現代新書、2004年)において、いわゆる「自由のパラドックス」を次のように述べています。
「人々が切実に自由を必要とするとき、彼らは『自由とは何か』を論じたりはしない。
逆に、自由についてあれこれ議論しているときには、人々は自由を渇望してはいない。」 ultrabem.com
つまり、
- 本当に抑圧された状況では「自由とは?」の理論的議論は空転し、具体的救済行動が優先される。
- 自由をめぐる言説が活発なときには、実質的な〈解放の切実さ〉はむしろ薄れている──学究的・言説的な関心がメインになっている──という逆説的状況を指摘しているわけです。
佐伯氏自身は、この現象を「パラドックス」と呼びつつも、
「抑圧された人々は単に異なる優先順位を一般にもっているだけで、こんな“パラドックス”と呼ぶのは大袈裟ではないか」 ultrabem.com
と、やや冷静に距離を置いた評価をしています。
──ご参考までに。もしさらにこの逆説の背景や、佐伯氏の他の論点(自己責任論や現代社会の「自由のジレンマ」など)も知りたいようでしたら、お知らせください。
情報源
あなた:
私は、佐伯氏のいう本当の自由とはバーリンの積極的自由のことを言っているのではないかと推察していますがいかがでしょうか。
ChatGPT:
思考時間: 9 秒
佐伯氏の「本当の自由」は、バーリンの「積極的自由(self‑mastery/自由へと行動する力)」という概念と重なる部分もありますが、厳密には少し異なると思われます。
- 佐伯氏の「本当の自由」=言説ではなく切実さ
佐伯氏が「本当に抑圧された状況では自由について論じられない」と言うときの「自由」は、理論的・学究的な「自由論」ではなく、〝目の前の圧迫から解放される〟という実質的なニーズを指しています。- つまり「誰かに邪魔されない(negative freedom)」とか、「自分の望む人生を自ら構想し実現する(positive freedom)」という二分法以前の、もっと原初的な「自由への渇望」です。
- バーリンの積極的自由とは要件が違う
バーリンがいう積極的自由は「自分自身が行為の〈源〉である」──合理的自己統制/自己実現の能力──として定義されます。これは抽象的な政治哲学的概念であり、理性にもとづく「こうあるべき自由」をめぐる議論でもありますウィキペディア。- 一方、佐伯氏のパラドックスは「理論的言説と実践的切迫感の乖離」を問題にしており、自由の〈本質〉や〈定義〉の是非を争うものではありません。
- まとめると
- 佐伯氏が指す「本当の自由」は、圧迫からの即時的・実践的な解放の切実さを主題としており、バーリンのポジティブ/ネガティブ自由の枠組みとは視点がズレています。
- したがって、「佐伯=バーリンの積極的自由」と読み替えるのは必ずしも正確ではなく、むしろ〈自由をめぐる言説の切迫度〉というメタ的パラドックスを示した独立した洞察と見るのが適切でしょう。
もし、「どうして佐伯氏があえて言説と実践のギャップをパラドックスと呼んだのか」「そこからどんな思想的帰結を導けるか」をさらに深めたいようでしたら、お知らせください。
情報源
あなた:
つまり彼のいう自由の条件とは、切実さがまずなければならないということでしょうか。
ChatGPT:
思考時間: 10 秒
はい。佐伯氏が言う「自由の条件」とは、理論的・学究的な自由論に先立って、まず〈切実な解放への渇望〉──具体的に「自分が抑圧されている」と感じる切迫した状況──が存在しなければならない、ということです。
- 人々が本当に自由を奪われている場面では、「自由とは何か」を論じる余裕はなく、まず抑圧からの解放を求める行動が優先される。
- 逆に、自由について熱心に議論が交わされているときは、実際にはそれほど切実な解放の必要性が感じられていない──つまり、切迫感の不在が理論闘争を生んでいる──という逆説を指摘していますultrabem.com。
ただし、佐伯氏がここで「自由=切実さ」と単純に置き換えているわけではなく、「切迫感のある場面では自由論争は空回りしやすい」という観察的洞察を示している点がポイントです。
情報源
あなた:
切迫感のある場面では自由論争は空回りしやすいというのは、つまり切迫感がない場合は自由論争がうまくいくということであっていますか。
ChatGPT:
思考時間: 数秒
はい。そのとおりです。ただし、ここでの「うまくいく」というのはあくまで「議論が活発になる」「理論が充実する」という意味であって、実際の解放や実践的成果を保証するものではありません。
- 切迫感の不在下では自由論争が活発化する
佐伯氏のパラドックスによれば、人々が抑圧をそれほど切実に感じていない状況では、余裕をもって「自由とは何か」をめぐる理論的議論に参加し、その内容を磨き上げることができる──いわば「自由論争がうまく回る」フェーズです。 - ただし、理論的成熟と実践的解放は別軸
活発な議論によって自由の定義や理念が洗練されても、それが直接に政治的・社会的な解放運動や制度改革につながるかはまた別問題です。切迫感がないときは「議論の場」は盛り上がりますが、当事者の行動変化や権力構造の転換という点では必ずしも「うまくいく」とは言えません。
まとめると、「切迫感がない場合に自由論争は活発化する」という読み替えは可能ですが、その「活発化」が即ち自由の実質的獲得や社会変革の成功を意味するわけではない──という点に注意が必要です。
情報源
あなた:
佐伯氏は自由に対して虚無を抱いているように見えます。
ChatGPT:
思考時間: 17 秒
佐伯氏は、一見すると「自由や民主主義への見切り」をつけることで、まるで〈自由そのものを虚無視〉しているようにも読めます。しかし、実際には次のように整理できます。
- 自由の至上主義が虚無を呼ぶ、という診断
『自由と民主主義をもうやめる』において、佐伯氏は「自由と民主主義を至上価値とする〈進歩主義=アメリカニズム〉がもたらす社会的疲弊」を批判します。そして、そこから生じるのは「生の意味が薄れる虚無感」だと指摘します。つまり〈自由の空洞化〉を問題にしているのであって、自由そのものを完全に否定しているわけではありません 幻冬舎kyoto-academeia.sakura.ne.jp。 - 虚無を克服するための「日本的価値」の提起
同書や後続の『倫理としてのナショナリズム』では、自由が個人主義的に肥大化し、倫理・共同体的な〈問い〉を失っている状況を「虚無」と呼びつつ、これを克服するために「封印された日本的価値」や「共同的倫理の回復」を訴えています 京都大学新聞社/Kyoto University Press。虚無を嘆くのではなく、その処方箋としての“倫理回帰”が彼の主張の核です。 - ニヒリズム批判と克服志向
佐伯氏は一貫して「ニヒリズム(虚無主義)を克服する」ことを自身のテーマに据えており、自由や民主主義を放棄するのではなく、それらが引き起こす「価値の空洞化」を克服するための思索を展開しています ウィキペディアウィキペディア。
──したがって、「佐伯氏は自由に対して虚無を抱いている」のではなく、むしろ 〈虚無を生むような自由観〉を批判し、そこから抜け出すための倫理的・共同体的回復を提唱している と理解するのが適切でしょう。
情報源
あなた:
その具体的な改善案は提出されていますか。
ChatGPT:
思考時間: 13 秒
佐伯啓思氏は、自由や民主主義がもたらす「虚無」を克服するために、以下のような具体的提案(改善案)を提示しています。
- 「封印された日本的価値」の回復
「私」中心の自由主義ではなく、まずは義務や共同体への責任を重視する〈義〉、「覇権」ではなく相互協調を旨とする〈和〉を精神の核に据え直すことを訴えています。これをもってアメリカニズム的自由観の行き過ぎを食い止めるべきだと──いわば「義/和」への回帰です 紀伊國屋書店幻冬舎。 - 「戦後日本」の価値観の再検討
戦後、日本が西欧・米国型の「自由と民主主義」を無批判に受容した結果、生の意味が空洞化したとし、まずは戦後体制下で抑圧・封印されてきた「共同的倫理」の再評価・再構築を提案しています 京都大学新聞社/Kyoto University Press。 - 日本型シヴィック・ナショナリズムの提起
グローバリズム批判の文脈で、国家・国民共同体を倫理的基盤とする「シヴィック・ナショナリズム」を構想し、個人主義的市場原理への歯止めをかける政治枠組みとして提示しています Amazon Japan。 - 「市場・国家・自由・倫理」の統合的再思考
『倫理としてのナショナリズム』では、制御なき市場中心主義や個人主義が欠落させているのは「倫理への問いかけ」だとして、経済・国家運営の各局面に倫理的規範を組み込むこと──すなわち、自由や市場の拡大を「共通善」へ繋げる制度設計や議論の場づくりを提案しています
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『自由論』
メモ
“ヨーロッパ自由主義は、単一の、一貫した運動のような外観を示していて、ほとんど三世紀の間大した変化もなく、ロックあるいは、グロチウスないしはスピノザさえによってきずかれた、比較的単純な知的基礎にもとづいてきたのであって、さらに遠く、エラスムスおよびモンテーニュ、イタリア・ルネッサンス、セネカおよびギリシャの人びとにまでさかのぼるのである。” P111
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