理想に届かない自分を、形式として保管する
理想に届かない自分を、形式として保管する——
この一句は、私にとって護符であり、呪いでもある。
護るのは、未完成を欠陥として葬らないため。
呪うのは、理想がいつまでも目前に立ちはだかり続けるためだ。
課長は今日も、書類の束を小気味よく捌き、
即断の声を放ち、現場を動かしている。
私の手元には、一冊の本と、未だ結ばれぬ思索の糸がある。
「理論は形式、実務は内容」——そう言うなら、
私の形式は空洞の器で、まだ音もなく転がっているに過ぎない。
空洞は、軽い。軽さは、秤の上で恥になる。
だからこそ、自己を肯定することは、容易でない。
だが、氷屋は知っている。
急冷は速いが、粗い。白濁し、脆く、欠けやすい。
山間の湖に張る自然氷は、ゆっくりと、
夜ごとの寒さを重ね、結晶を緻密にし、光を透かす。
私の読書は、その湖の底で凍りかけている水に似ている。
形をとるには、まだ幾度もの夜が要る。
だから私は、未完成をそのまま封じ込める。
棚に置き、塵を避け、光を避け、
氷が均質に、静かに伸びるのを待つ。
それは怠惰ではない。熟成である。
熟成は、未来への誤配でもある。
今は誰の口にも届かない氷が、
ある日、思いもよらぬ人の掌に置かれ、
一口で、その長い冬を見抜かれることがある。
その時まで、私は急がない。
理想は、遠くでかすかに輝く氷山の稜線だ。
そこへ至る道は、融けたり、また凍ったりしながら続く。
私はその道程そのものを、作品として保存する。
完成はまだ訪れない。
だが、形式として保管された未完成は、
ときに完成品よりも、長く透明であり続けることがある。
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