新・読書日記539(読書日記1879)
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日記
『教育は社会をどう変えたのか』を引き続きじっくり読んだ。
自己責任という言葉の本質をいろいろと考えさせられる。書店にはちくまプリマー新書から『自己決定の落とし穴』という本が最近出ており、自己責任という概念はまだ人々の関心にあるようだ。
小坂井敏晶『責任という虚構』を思い出す。
ちなみに『格差という虚構』の主張は、ちょっと忘れてしまったところもあるが、格差という虚構・概念が政治装置によって正当化されてしまう、端から格差なんて存在しない、というものであった。
責任も同じで、最初からそんなものは決定論的には存在しない(山口尚氏はのちにこの命題についてちくま新書で掘り下げている)。罰するには責任という概念が必要なので、決定論的にはあり得ないが責任という概念が虚構として機能するという、まあ複雑な議論だった記憶がある。
・・・
ここまで振り返って、「自己責任」という言葉の本質がある程度度見えてくると思う。
7割は虚構。おそらく。
環境や遺伝、生まれる時代など、時間を遡るとひとつひとつの行為はその人の人生という文脈のなかで半ば「必然的」なものと言えるかもしれない。この主張には多くの反論があるかもしれないが、あちらがたてばこちらがたたず。山口氏の本では、結局責任という概念をどうとらえればいいのか、一般読者にはその本質があまり伝えきれていないのかもしれない。人間を機械とみなすか、自由な存在とみなすか。自由とみなすと文脈を否定することになるので現実的ではないというジレンマにはまるのでもうこれ以上は考えられない。
だから最後には二つの発想が見えてくる。
あきらめるか、それでも目の前のことに全力で取り組むか。
これすらも決定論的にある程度決まっているのかもしれない。
自分は自由意志決定論の真の答えがどうであろうと、その答えに関係なく終わりなき日常を体当たりで生きるしかない。
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