うしろめたい読書日記から保存する欲望日記へ
読書日記を書くとき、いつもどこかで「うしろめたさ」を感じてしまう。
なぜだろうか。読書は一般には「よい行い」「文化的な営み」とみなされているはずなのに、その記録を公開した途端、どこか後ろ暗い気分が忍び込んでくる。
「こんな本を読んでいると知られるのは恥ずかしい」
「感想が浅いのでは、と誰かに思われるのではないか」
「名著を読まずに娯楽小説ばかり、というのは後ろめたい」
そうした思いが、読書日記という小さな形式に影のようについて回る。
それでも、私たちはなぜ読書日記を書かずにいられないのだろうか。
その理由は、知識や記録のためだけではない。もっと根源的な欲望――「保存したい」という衝動にあるのではないか。
「うしろめたい読書日記」とは、単に本の感想を綴ることではない。
そこには、書く人が意識せざるをえない複数の感情が絡みついている。
第一に、規範からのずれへの負い目。
「もっと難しい本を読むべきでは?」
「名著を読んでいないのは恥ずかしい」
そんな思いが、無邪気な記録を曇らせる。
第二に、感想の浅さへの自己批判。
「これでは誰にでも言える感想ではないか」
「分析が足りないのではないか」
書きながら自分の思索に点数をつけるもう一人の自分が、背後に立ち続ける。
そして第三に、虚栄と羞恥の共存。
「私はこれを読んでいる」と誇示する気持ちと、
「実際は大して理解できていないのでは」という不安が、同時に顔を出す。
この三つの層が重なり合うところに、「うしろめたい読書日記」という奇妙な領域が生まれる。
それは、誠実であろうとするがゆえに生じるズレであり、むしろ人間的な読書の姿そのものなのだ。
それでも人は、うしろめたさを抱えながら日記を書き続ける。
その根には、知識や情報の整理を超えた、もっと切実な衝動が潜んでいる。
それは、保存する欲望である。
読んだ本の内容を忘れたくない。
そのときの自分の感情を残しておきたい。
あるいは、時間の中に確かに存在していた「読んでいる私」を刻みつけたい。
そうした欲望は、合理的な理由で説明しきれない。
むしろ「残さずにはいられない」という衝動のかたちをとって現れる。
ここで重要なのは、この保存欲望が、うしろめたさと対立するものではない、という点だ。
羞恥や虚栄を含んだまま、それでも「残したい」と願う。
つまり読書日記とは、恥と欲望の混合物として現れるのだ。
「うしろめたい読書日記」から「保存する欲望日記」へ――
この移行は、恥を消すのではなく、恥を抱えたまま保存の衝動を引き受ける営みである。
読書日記を書くことは、決して透明で無垢な営みではない。
いつもそこには、規範からのずれへの負い目、感想の浅さへの不安、虚栄と羞恥のせめぎあいがまとわりついている。
その意味で、読書日記は常に「うしろめたい」ものである。
だが同時に、私たちが日記を書き続けるのは、単なる義務感や知識欲のためではない。
そこには、どうしても残したい、忘れたくない、保存せずにはいられない――そんな欲望が働いている。
だからこそ、私はこう言いたい。
「うしろめたい読書日記」から「保存する欲望日記」へ。
恥を消し去るのではなく、その恥ごと保存してしまう。
虚栄や浅さを抱えたまま、それでも「読んだ私」を刻みつける。
そうした保存の欲望こそが、読書日記という営みの核心にある。
そして、その痕跡はやがて、ひとりの読書人の小さな時間の厚みとなり、未来の自分や他者に届くかもしれない。
保存する欲望を引き受けるとき、読書日記は単なる記録ではなく、欲望そのものの証言となるのだ。
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