うしろめたい読書日記と書店のコンビニ化
序章 問題提起
現代の書店は、かつて「知の迷宮」として偶然性や出会いをもたらした場であった。しかし今日、その多くは「コンビニ化」した新刊平積みの場所へと変貌し、効率性と売れ筋主義に回収されている。そこでは「読むこと」そのものが標準化され、オリジナリティや探究性は失われつつある。本論は、この現状に対する批判的検討と、読書日記という営みを介した抵抗の可能性を論じるものである。私たちはいまや、ただ本を買う消費者ではなく、知の旅人としてどのように書店を通過し、読書日記に痕跡を残すべきかを問われているのだ。
第一章 うしろめたい読書日記とは何か
読書日記は、学術的批評や書評の形式とは異なり、きわめて私的で不完全な記録である。そのため、しばしば「うしろめたさ」を伴う。すなわち、「この程度の断片で公表してよいのか」「他者に通用するのか」という不安である。しかし、この不完全性こそが、読書日記を倫理的実践として特徴づける。なぜならそれは、完全さを欠いたまま他者に開かれる行為であり、他者の批判や共感を受け入れる準備を伴うからである。フーコーが言うように「自己への配慮」(souci de soi)は、同時に他者との関係性において自己を開く契機である¹。またレヴィナスの他者論は、他者に応答する責任を常に「不十分さ」の形で引き受けることを示唆している²。読書日記の「うしろめたさ」は、他者との関係における倫理的責任のしるしにほかならない。
その「うしろめたさ」はまた、書き手の言葉に震えを与える。学術論文の整然とした構築にはない、手探りの呼吸がそこに宿る。その呼吸は、孤独な部屋の机に置かれたノートを通じて、やがて見知らぬ他者へと橋を架けるのである。読書日記とは、自己の未熟さを隠さずに晒す勇気であり、その勇気が読書という営みを倫理化する。
第二章 書店のコンビニ化現象
「コンビニ化」とは、消費社会的な効率性と均質化によって、本屋が単なる商品陳列所と化す過程を指す。新刊やベストセラーが画一的に並び、いずれの都市に行っても同じ景色に出会う。そこには「未知との遭遇」や「偶然の発見」といった体験が失われている。小規模書店が経営的に生き残るために効率化を強いられるのは理解できるが、それは同時に書店の文化的意義を掘り崩すことになる。この現象は、ボードリヤールが論じた『消費社会の神話と構造』³に通じ、商品が差異を装いながらも実際には同質化を推し進めることと重なっている。
さらに、日本の出版流通における再販制度や取次支配は、書店を「自由な編集空間」から「流通の末端」へと変質させた。ここにおいて「選書」という行為の主体性は奪われ、書店員はただの「在庫管理者」と化す。結果として、知的冒険や文化的発見は、コンビニの陳列棚と同等のものへと転落するのである。書店はいつしか、読者を未知へと誘う迷宮の顔を失い、消費社会の光に過剰に照らされた透明な廊下となったのである。
第三章 偶然性の喪失と発見の倫理
読書において偶然性は重要な契機である。偶然の出会いは、予定調和的な知識の習得を超え、読者を未知へと開く。しかし、アルゴリズムによる推薦や効率的な検索が支配する現在、この偶然性は失われつつある。バルトが『テクストの快楽』で論じたように、読書の喜びは「予定調和を裏切る瞬間」に宿る⁶。偶然の発見を失った読書は、単なる情報消費に堕してしまう。
だが、偶然性は単なるランダムではない。それは「自己を超える他者性への開放」である。デリダが「差延(différance)」と呼んだものは、まさに予定調和的な意味の遅延と逸脱によって、新しい読解の場を生み出す⁷。読書日記に偶然に出会った書物を記すことは、この逸脱を痕跡として保存し、他者に伝達する倫理的実践である。それはカルヴィーノの小説『冬の夜ひとりの旅人が』⁸における、読書の連鎖的な偶然と響き合うものである。
偶然は、書棚の奥からこぼれ落ちる埃のように読者に舞い降りる。その埃を払い落とさず、ノートに書きつけることで、偶然は記憶となり、やがて公共性へと変換されるのだ。
第四章 消費社会批判
書店のコンビニ化は、消費社会における「効率」「同調」「自己啓発化」という三つの病理に直結している。第一に「効率」は、知を商品化し、即効性を持つ情報やハウツー本を優先させる。第二に「同調」は、ランキングやSNSでの「話題本」消費へと人々を駆り立て、独自の読書経験を希薄化させる。第三に「自己啓発化」は、読書を「自己改善の手段」へと矮小化する。これらの傾向はリースマンが『孤独な群衆』で描いた「外的指向型人間」そのものである¹⁰。
アドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』で論じたように、啓蒙はしばしば「支配の合理性」に転化する¹¹。現代の自己啓発的読書は、自己の自由を拡張するのではなく、むしろ市場や制度に適応するための「合理的順応」を内面化している。この意味で、書店のコンビニ化は、単なる産業構造の問題ではなく、主体の倫理的退化の問題なのである。読書が魂を耕す営みであった時代から、効率的消費のための刈り取り作業へと変質している。それを食い止めるための批判は、単なる嘆きではなく、未来への希望のための抵抗でなければならない。
第五章 書店の実践例とその限界
独立系書店や古書店は、コンビニ化への抵抗の現場である。選書の独自性、トークイベント、地域コミュニティとの連携など、多様な試みがなされている。たとえば東京の「本屋B&B」や京都の「誠光社」は、選書と対話の場を重視し、単なる商品販売を超えた文化的機能を果たしている。また古書店は、歴史的文脈を保持しながら、偶然性を提供し続けている。
しかし、その多くは経済的に脆弱であり、持続可能性に課題を抱えている。松岡正剛が『知の編集工学』¹⁴で示すように、知を編み直す実践にはコストと時間が不可欠である。これを市場競争の中で維持することは困難であり、結果として独立系書店は「文化の灯台」として尊重されつつも、広範な社会的影響力を持つには限界がある。だが、この限界を見据えたうえでなお、その存在は公共性の萌芽を支えているのである。灯台の光は弱くとも、それは夜の海を渡る者にとって決定的な道標である。小さな書店もまた、知的漂流者にとって不可欠の座標なのだ。
第六章 公共圏としての書店
書店は単なる商業施設ではなく、公共圏の一部として機能しうる。ハーバーマスが『公共性の構造転換』で論じたように、公共圏は市民が自由に議論を行う場として成立した¹⁸。書店もまた、知的討議の契機を提供する場所として、その一角を担う。ナンシーが強調する「共-存在」¹⁹の観点から見れば、書店は人々が本を介して共に存在する空間である。さらに現代日本における市民社会論においても、書店は「小さな公共圏」として重要な位置を占めている²⁰。
ただし、この役割は市場原理の中では持続しにくい。市民的公共圏を支えるには、書店の存続を単なる市場競争に委ねない仕組み――例えば地域支援や公共政策――が求められる。書店を「市民の知的インフラ」とみなす視点がいまこそ必要なのである。書店の棚は商品棚ではなく、議論と想像力の共鳴板である。そこに立つ人々は消費者ではなく、市民である。
第七章 読書日記の倫理と公共性
これまでの議論を総合すれば、読書日記は「書店のコンビニ化」が奪った偶然性や公共性を、個人の営為として取り戻す実践である。ブランショが『来るべき書物』で描いたように、書物は常に未完であり、他者に向けて開かれている²²。読書日記はこの未完性を引き受け、他者に痕跡として提示するものである。それはアーレントの言う「行為」としての公共性²³に通じ、またバトラーが『アセンブリ』で論じた身体的共現の概念とも響き合う²⁴。
読書梟が提唱する「読書日記アプローチ」²⁵は、この文脈で「形式にとって誤配であれ」という実践原理として理解されうる。すなわち、誤配的で偶然的な読書記録を公共的に開くことが、むしろ倫理と公共性を生成するのである。読書日記は、誤配を誇りとすることで、自己と他者をつなぎ直し、偶然を制度化することなく、開かれた空間へと結晶させる。書きつけられた断片は、未来の読者にとっての予期せぬ呼びかけとなるのだ。
終章 「うしろめたくない読書日記」の意義
1. 「うしろめたさ」を超える契機
本論全体を通じて明らかになったのは、現代の書店文化が「コンビニ化」によって偶然性や公共性を喪失している現状である。そのなかで読書日記は、しばしば「うしろめたい」営為として自己規定されてきた。私的であり、社会的承認を得にくく、経済的な生産性にも乏しいからである。しかし、まさにその「うしろめたさ」こそが、読書日記を倫理的に意義ある実践へと変えるのである。ここで提示されるべきは、「うしろめたくない読書日記」の可能性である。
2. 読書日記の肯定的な公共性
「うしろめたくない読書日記」とは、個人の自己表現や孤立を超えて、公共圏の形成に寄与する記録である。それは、誠実で不完全な言葉を通じて他者とつながり、知的交流を開く営みである。偶然的な読書の軌跡を記録し公開することは、書店が失った偶然性をデジタル空間で再生する行為であり、同時に小規模で分散的な公共性を紡ぎ出す。ノートの紙片が、ブログ記事が、やがて見知らぬ誰かに届き、そこに小さな公共圏が芽吹くのである。
3. 倫理的責任と喜び
読書日記は、「知的な自己保存」ではなく、「他者との共有と応答」を前提とした倫理的実践である。それは責任であると同時に喜びでもある。他者と書物をめぐる経験を共有し、批判や共感を受け止めることで、読者は自己を越えた知的共同体に参与する。「うしろめたくない読書日記」とは、この責任と喜びを肯定的に受け止める態度にほかならない。書き手は孤独に文字を綴りながら、実は無数の読者と共に在るのである。
4. 結語――新たな読書文化への展望
結局のところ、読書日記は決して個人の趣味に閉じた営みではない。それは書店の限界を超え、消費社会的な効率や同調圧力に抗して、知の倫理を再構築する道筋を示す。「うしろめたくない読書日記」は、現代の読者が手にしうるもっとも開かれた実践であり、新しい公共性を創造する文化的契機であると結論できる。その日記の一頁が、やがて未来の読者にとっての呼びかけとなり、書物の連鎖に新しい響きを与えるだろう。
参考文献一覧
- Michel Foucault, L’herméneutique du sujet (Paris: Gallimard/Seuil, 2001).
- Emmanuel Levinas, Totalité et Infini (La Haye: Martinus Nijhoff, 1961). 邦訳『全体性と無限』合田正人訳、国文社、1995年。
- Jean Baudrillard, La société de consommation (Paris: Gallimard, 1970). 邦訳『消費社会の神話と構造』今村仁司ほか訳、紀伊國屋書店、1979年。
- Roland Barthes, Le plaisir du texte (Paris: Seuil, 1973). 邦訳『テクストの快楽』花輪光訳、みすず書房、1977年。
- Jacques Derrida, Marges de la philosophie (Paris: Minuit, 1972). 邦訳『哲学の余白』田中和生ほか訳、法政大学出版局、1998年。
- Italo Calvino, Se una notte d’inverno un viaggiatore (Torino: Einaudi, 1979). 邦訳『冬の夜ひとりの旅人が』脇功訳、白水社、1985年。
- David Riesman, The Lonely Crowd (New Haven: Yale University Press, 1950). 邦訳『孤独な群衆』米山俊直・富永健一訳、みすず書房、1964
- Theodor W. Adorno & Max Horkheimer, Dialektik der Aufklärung (Amsterdam: Querido, 1947). 邦訳『啓蒙の弁証法』徳永恂・三島憲一訳、岩波書店、1990年。
- 松岡正剛『知の編集工学』筑摩書房、1984年。
- Jürgen Habermas, Strukturwandel der Öffentlichkeit (Neuwied: Luchterhand, 1962). 邦訳『公共性の構造転換』細谷貞雄・山田正行訳、未来社、1962年。
- Jean-Luc Nancy, La communauté désœuvrée (Paris: Christian Bourgois, 1986). 邦訳『無為の共同体』安宅光雄訳、以文社、2001年。
- Maurice Blanchot, Le livre à venir (Paris: Gallimard, 1959). 邦訳『来るべき書物』中地義和訳、月曜社、2005年。
- Hannah Arendt, The Human Condition (Chicago: University of Chicago Press, 1958). 邦訳『人間の条件』志水速雄訳、筑摩書房、1994年。
- Judith Butler, Notes Toward a Performative Theory of Assembly (Cambridge: Harvard University Press, 2015). 邦訳『アセンブリ――行為遂行性の現場』竹村和子訳、青土社、2019年。
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