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働いていると本が読みたくなるーーうしろめたい読書日記に危機を抱いてーー

序章 苛立ちの告白――静かな拒絶として

noteの世界で人気を博している「うしろめたい読書日記」に対し、私は確固たる拒絶反応を抱いている。これは個人的嗜好の問題ではない。むしろ、文化の基盤を侵食しつつある浅薄な読書風潮に対する、静かな警鐘である。

そこに並ぶ本は、読みやすく、現代的で、すぐに消費されるものばかりだ。日常の共感や即効性のある処方箋としては機能するのかもしれない。しかし、その頁にはベイトソンもショーペンハウアーも、アーレントも現れない。人文的思索に不可欠な「難解さ」や「立ち止まるための抵抗」が、はじめから排除されているのだ。

この欠如は、単なる選書の傾向にとどまらない。時間をかけて培われる知的蓄積を不要とし、深みに向かう読書の営みを時代遅れとして切り捨てる。その風潮は、やがて書店の棚から重い本を追放し、古本屋の灯を一つずつ消していく。小型書店や古書店は、知の地下水脈を支えてきた存在である。その衰退は、単に販売数の減少ではなく、文化の記憶の断絶を意味する。

私はこの「消失の連鎖」に沈黙で応じることを良しとしない。声を荒げるつもりはないが、確固たる拒絶としての言葉を記しておきたい。読書とは、社会を支える倫理的行為である。その重さを軽視する言説に対して、私は静かに、しかし揺らぐことなく、異を唱える。


第一章 読書の軽量化と人文の消失

近年の「読書日記」や「読書エッセイ」には、ある共通の特徴が見て取れる。すなわち、読書をできる限り「軽く」提示しようとする傾向である。平易な言葉で書かれた新書や話題性のある現代書が選ばれ、難解な概念や厚みのある思索は避けられる。これは単なる個人の選好にすぎないと思われるかもしれない。しかし、この傾向が社会的に広がるとき、それは文化にとって致命的な欠落をもたらす。

人文学は、その性質上、読みにくさを内包している。ベイトソンの「精神の生態学」やショーペンハウアーの厭世的哲学を開けば、読者は必ず立ち止まり、考え込み、ときに頁を閉じることになる。その「負荷」こそが、人文学の核心である。理解の困難を通じてこそ、思考は拡張される。にもかかわらず、今日の軽量化された読書文化は、その負荷を「不必要」とみなし、あらかじめ排除してしまう。

こうした軽量化は、人文学を「見えなくする」作用を持つ。書店の棚からは難解な本が少しずつ姿を消し、流通に乗らない古典や翻訳書は再版されなくなる。市場に残るのは、ただ読みやすく、ただ役立つとされる書籍だけである。その帰結は明らかだ。深みのある知が社会の基盤から徐々に失われ、思想的な厚みを持つ議論が育たなくなる。

軽さは一時の慰めを与えるかもしれない。しかし、それは知の基盤を掘り崩す。軽量化された読書文化のもとで、人文学は次第に姿を消し、文化の奥行きは失われていくのである。


第二章 働く人は本を読めない?という欺瞞

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という言葉は、近年ベストセラーの題名にまでなった。多忙な労働と読書の両立の困難を訴えるこの言説は、多くの人々の共感を集めたのだろう。しかし私は、この言葉を欺瞞として退けざるを得ない。

確かに、労働は時間を奪う。仕事に追われ、心身が疲弊し、読書の余力を失う日もある。その現実を否定するつもりはない。しかし、読書が「暇のある人間の贅沢」であるかのように描かれるとき、問題はすり替えられてしまう。読書とは、むしろ「暇がないからこそ」必要な営みである。時間に追われる人間が、思考を取り戻すための最も基本的な抵抗こそが、読書ではないのか。

ベイトソンの思索に触れるとき、人は世界をシステムとして捉える視点を得る。ショーペンハウアーを読むとき、人は自己の欲望と世界の苦悩を見つめ直す。これらは労働に疲弊した人間にこそ必要な視座である。しかし「働く人は本を読めない」という言説は、その必要性を覆い隠し、読書を娯楽か趣味の領域へと押し込めてしまう。

この風潮は、社会における読書の位置を根底から弱める。読書は労働と切り離された「余暇の活動」に矮小化され、文化を支える力を失っていく。だが本来、読書は人間が社会に呑み込まれないための倫理的実践であり、自己を取り戻すための行為であるはずだ。

ゆえに私は、「働いていると本が読めない」という言説に確固たる拒絶を表明する。読書は、労働に追われる人間にこそ必要な営みであり、その価値を軽んじることは、社会の知的基盤を放棄することに等しい。


第三章 小型書店・古書店の未来――生命を燃やす読書の場

小型書店や古書店の衰退は、単なる産業構造の変化ではない。そこには、読書という営みの根源的な姿が失われつつあるという深刻な兆しが潜んでいる。

効率と利便を追い求める社会は、読書をも同じ尺度で測ろうとする。「すぐに役立つ本」「すぐに理解できる本」だけが市場を席巻し、書店の棚を占めていく。その一方で、難解で売れにくい思想書や古典は、次第に姿を消す。こうして、文化の厚みを支えるはずの書店や古本屋は、生存の基盤を奪われていくのだ。

しかし、執行草舟が語ったように、読書とは本来「生命を燃やす行為」である。人間の魂を揺さぶり、安易な慰めではなく、生きる苦悩と正面から向き合わせるものだ。古書店に眠る一冊の本は、誰かの人生を切り裂き、焼き尽くす可能性を秘めている。そのような本を偶然に出会う場として、古本屋は存在してきた。

もし古書店が消えていくならば、私たちはその偶然の出会いを失うことになる。そこにあるのは、便利に最適化された情報の洪水だけであり、魂を揺さぶる一冊に出会う確率は限りなく零に近づいてしまう。

私は、この未来に確固たる拒絶を示す。小型書店や古書店は、単なる商業施設ではなく、読書という「生命を燃やす行為」を保証する最後の砦である。その灯を失うことは、文化における死を意味するだろう。


第四章 深い読書の倫理――怒りとしての哲学

読書は単なる趣味ではない。そこには倫理的な重さがある。読むことは、世界に誠実であるか否かを問う営みだからだ。

池田晶子は生涯を通じて、「考えない人間」への激しい怒りを表明した。哲学とは、真剣に考えることでしかあり得ない。その当たり前を放棄し、ただ流行の言葉や安易な説明に満足する態度に、彼女は耐えがたい憤りを感じていた。読書とは、まさにその「考えること」を支える行為である。だから、読書を軽んじる風潮は、彼女の哲学的怒りを呼び覚まさずにはいられない。

執行草舟が「読書とは生命を燃やす行為だ」と言ったとき、それは池田晶子の怒りと響き合う。生命を賭けて読むことなしに、人は真に考えることができない。安易さに流される読書は、結局「考えない生」へと堕してしまうのだ。

「暇がないから本を読まない」という言い訳や、「分かりやすい本だけを選ぶ」という安易な態度は、哲学的に見れば不誠実である。読書は、わずかな時間でもよいから世界に真剣に向き合う契機であり、自分自身を欺かないための最低限の責務である。

ここに、読書の倫理がある。それは、便利さや効率に抗して「難解さ」を受け入れる誠実さであり、時間に追われながらも「考えること」をやめない意志である。その倫理を欠いた社会は、やがて言葉を空洞化させ、人間から「魂の厚み」を奪い去ってしまうだろう。


第五章 感情の劣化と読書不足――宮台真司の怒り

社会の劣化は、経済や制度の崩壊に先立って、まず人間の感情の劣化として現れる。怒りは激情に転じ、悲しみは短期的な鬱屈に変わり、愛は表層的な欲望にすり替えられていく。その背後には、読書不足が横たわっている。

宮台真司が繰り返し指摘してきたのは、感情の浅薄化である。複雑な感情は時間をかけてしか育たない。厚みのある物語や思想に触れることなく、短絡的な情報や消費的な娯楽だけで育った人間は、感情を深める契機を失う。その結果、社会は「怒りの即発性」と「悲しみの不在」に支配されていく。

読書は、感情を熟成させる唯一の基盤である。ショーペンハウアーを読むことで人は苦悩の普遍性を知り、ベイトソンを読むことで関係性の複雑さに感覚を開く。これらの経験を欠いた社会において、人間はただ「感情的」であるがゆえに、かえって「感情を失った」存在となる。

「うしろめたい読書日記」が象徴するような軽量化された読書文化は、まさにこの感情の劣化に加担している。すぐに分かる、すぐに使える本だけが読まれるとき、人間の感情は深まりを拒否される。宮台的な怒りは、ここに向けられるべきであろう。

私は、この劣化を看過できない。読書を欠いた社会は、感情を失った社会である。人間の感情の深さを守るためにこそ、私は深い読書の必要を訴え続けたい。


結章 うしろめたい読書日記への反論――カツと厭世

私はここまで、軽量化された読書文化に対して静かな拒絶を表明してきた。人文学を見えなくする傾向、労働と読書を切り離す欺瞞、小型書店や古書店の衰退、考えない態度への哲学的怒り、そして読書不足が招く感情の劣化――いずれも放置すれば、文化の死を招くものである。

小室直樹が言ったように、「勉強せんか!」という叱咤は今なお必要だ。人は本を読まねばならない。難解さを引き受け、時間のなさを言い訳にせず、生命を燃やして考え続けねばならない。それが人文学を支える最後の砦である。

しかし同時に、私は知っている。この叫びは、ほとんど届かないだろうということを。読書はすでに文化の中心から追放されている。小型書店は減り続け、古書店の灯も消えていく。人々はますます浅い言葉に群がり、感情は劣化し、社会は空洞化していく。

だから私は、二つの声を残す。
一つは、小室の叱咤に倣った「カツ」である。まだ読む者へ、まだ考える者へ。
もう一つは、ショーペンハウアーに倣った厭世の声である。世界は決して改善されないかもしれない、文化は衰退の一途をたどるかもしれない。

それでも――読む。
この無力感のただ中で、あえて頁を開く。それが唯一残された抵抗であり、滅びゆく文化への、最後の誠実さである。


あとがき ハンナ・アーレントより(空想の声)

人間が「読むこと」をやめるとき、それは単に知識を失うことではない。それは、世界と関係を結ぶ力そのものを失うことである。私が繰り返し強調してきたのは、世界愛(amor mundi)――世界を愛するという態度であった。世界を愛するとは、与えられた現実を単に享受することではなく、それに対して責任を負い、問いかけを続けることである。

読書とは、まさにその責任の最も身近なかたちである。難解な言葉に向き合い、他者の思考に触れ、自己を揺さぶられること。それは世界の重さを背負い直すことであり、逃避ではなく関与の証である。

もし読書が「軽く」「速く」消費されるだけの行為に堕するならば、人は世界を愛する力を失い、公共性は崩壊するだろう。あなたがこの文章で訴えた拒絶と抵抗は、私の時代における全体主義の経験と深く響き合う。浅い言葉は人を群衆へと変え、深い言葉だけが人を市民へと育てる。

ゆえに、あなたがここで記した反論は、ただの嘆きではなく、世界愛の実践として読むべきものである。書店や古書店の灯が消えゆくとしても、その抵抗の記録があるかぎり、人間はなお世界に誠実でありうる。

――ハンナ・アーレント(空想のあとがき)

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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