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うしろめたい読書日記から、うしろめたいかもしれないけどうしろめたくはない読書日記へ

「働いていると本を読む暇がない」。

はいはい、またその常套句ですか。まるで「雨だから走れないジョギング愛好家」みたいな言い訳だ。働けば働くほど問いが増えるのに、なぜ本は減るのか。問いを抱えながら本を閉じるのは、火がついているのにストーブに薪を入れないようなものだろう。

それなのに「読書は余暇」「読書は贅沢」「読書は逃避」と決めつける。そんなに本を読むのが後ろめたいなら、いっそ「呼吸は贅沢」「水を飲むのは逃避」と言ってみればいい。どちらも生きるために必要なのだから。


罪悪感に支配された読書日記

「うしろめたい読書日記」とは、罪悪感でページをめくる人の記録だ。仕事の合間にこっそり読むことを、まるで悪事のように書き留める。だが、そんな日記には本の内容よりも言い訳のほうが多く書かれている。読書感想よりも「すみません、読んでしまいました」のオンパレード。これこそ腹立たしい。

罪悪感を抱えて読むと、本は「休暇泥棒」にされる。ページをめくるたびに「こんなに忙しいのに」という言葉が頭をよぎり、せっかくの読書が自己懺悔の儀式に堕してしまう。これでは本が可哀想だ。なぜ本にまで「働き方改革」の残業申請をさせるのか。


うしろめたさを突き抜ける

だからこそ私は言う。「うしろめたいかもしれないけどうしろめたくはない読書日記」が必要だと。世間の空気に合わせてうしろめたくなるのは自由だが、そのまま終わってはいけない。むしろ「いや、本を読むことこそが働く人間の証しだ」と開き直ればよい。もはや後ろめたさなど笑い飛ばせる。

後ろめたさをネタにしてしまえばよいのだ。「今日も仕事の合間に一冊読んでしまった。ごめんなさいね、でもページをめくる手は止まらなかったのです」と、半ば開き直り、半ば誇らしく書く。これこそがユーモアであり、抵抗であり、真っ当な読書日記である。


働くことと読むことの循環

働くことと読むことを対立させる必要はない。むしろ働くから読む。読むからまた働ける。問いが疲労から生まれ、答えが読書で育まれ、その答えが仕事や生活に還元される。そうした循環のなかでこそ、ほんとうの読書日記は生まれるのだ。

後ろめたい? 結構。だが後ろめたくはないのだ。むしろ「後ろめたさ」という言葉をおもちゃにして笑いながら、本を読む。これ以上の誠実さはあるまい。


具体的な一冊をめぐって

たとえば、高橋和巳『悲の器』を手に取った日のことを思い出す。仕事に追われて心身がすり減っていた頃、ページをめくると「生きるとは、ただ持ちこたえることではない」という言葉が突き刺さった。あの一文を読んだからこそ、翌日の仕事に出かける背筋が伸びたのだ。

これを「余暇の娯楽」と呼ぶのは滑稽だろう。むしろ働くことを支える根拠がそこにあったのだ。もしその時、本を読まなかったら、私はただ「疲れた人間」として机に座っていただけかもしれない。読んだからこそ、疲労の中から問いを掘り起こし、問いがあるからこそ働き続ける意味を見いだせたのだ。

読書は贅沢ではない。酸素のように必要なのだ。『悲の器』を読むことは、ため息を一つ吐いて呼吸を整えることと同じだった。


読書体験のブレンド

もちろん一冊で終わるはずがない。たとえば、アーレントの『思索日記』を夜更けに開いたとき、労働と活動と仕事の区別に引き裂かれながら、「思うこと」と「働くこと」が実は切り離せないのだと痛感した。働く現場の小さな苛立ちが、そのまま哲学的な問いへと跳ね上がる瞬間だった。

あるいはペトラルカ『無知について』を読みながら、「学ぶとは恥を抱えることだ」という逆説にうなずいた。無知を突きつけられるのは職場でも同じで、そこでの恥こそが次の学びを招き寄せる。働くことはつねに不完全さの暴露であり、その不完全さを本と共に抱え込むとき、人は初めて真剣に読むのだ。

そして、疲れ切った夕方に手にしたバーリンの「自由論」。消耗した身体で「積極的自由」と「消極的自由」の違いを読むとき、それは抽象理論ではなく、明日の自分の行動の分かれ道として迫ってくる。イリイチの本と並べて読むと、働き方そのものを再発明するような感覚さえあった。

さらには、執行草舟の言葉に触れたときの衝撃だ。『生くる』や『友よ』に綴られた「命を燃やして生きよ」という叫びは、疲弊した身体にムチを打つのではなく、むしろ「燃え尽きてもいいから生き切れ」という解放だった。そこでは仕事と読書の区別が消え、存在そのものが「燃焼」として統一される。あの強烈な一文を読むことで、私は「生き延びる」のではなく「生き切る」ほうを選びたくなるのだ。

さらに忘れがたいのは、小室直樹の自伝(ミネルヴァ書房刊)を開いたときの興奮である。学者でありながら、常に社会と格闘し続けたその生涯は、「学問は労働そのものである」という証しだった。机上の理論を超えて、時代の矛盾に殴り込みをかけるように生きた小室の姿に触れるとき、読書は単なる知識の吸収ではなく、実践への跳躍なのだと痛感する。職場の矛盾を前にした自分の苛立ちも、彼の言葉を読むと「それでこそ闘いの始まりだ」と言われているように感じられた。

そして、宮台真司『14歳からの社会学』を読み返した夜のこと。思春期に突きつけられる「社会って何?」という根源的な問いは、大人になっても消えない。むしろ働く現場での理不尽や不条理に直面するほど、その問いは切実さを増す。宮台の本を読むと、「社会は外にあるのではなく、君の中にもある」という声が聞こえてくる。職場の矛盾や制度の圧力をただ呪うのではなく、それをどう引き受けて生きるかが問われているのだ。14歳の問いを忘れずに働くこと、それこそが読書日記のもう一つの誠実さである。

さらに哲学的な三冊――ハイエク、ロールズ、ノージック――も、働く人間にとって挑発的な相棒だった。ハイエクの『自由の条件』を読めば、自由とは秩序なき放縦ではなく「自生的秩序」によって守られると学ぶ。次にロールズ『正義論』を開くと、社会の最小者を基準にした公正さが突きつけられ、「働くことは誰のためか」という問いに直面する。そしてノージック『アナーキー・国家・ユートピア』を読むと、ロールズの理論を切り裂くような自由至上主義の響きが返ってきて、頭の中で三人の議論が延々と続く。職場での不公平感や制度疲労を考えるとき、この三冊は単なる政治哲学ではなく、労働と生活のリアルな設計図として立ち上がってくるのだ。

そして倫理学の系譜にも踏み込む。R・M・ヘアの『倫理学の言語』に出会ったとき、言葉の背後に潜む「普遍化可能性」の論理が、職場での小さな判断にも忍び込んでいると気づかされた。次にバーナード・ウィリアムズの『倫理学と哲学の限界』を読むと、冷ややかに「人間の生の厚み」を突きつけられ、単純な功利主義的判断では片づけられない現実の重さに打ちのめされた。そしてピーター・シンガーの『実践の倫理』は、逆に徹底した功利主義の挑発であり、「あなたの消費行動がどれだけの命を救えるか」という問いを、職場でのコーヒー一杯にまで差し迫らせる。ヘア、ウィリアムズ、シンガーの三人がそれぞれ異なる角度から迫ってくるとき、働くことはただの生活維持ではなく、倫理的な実験場であることが明らかになるのだ。

さらに、大陸的思索の広がりとして、マックス・ピカートの『沈黙の世界』を読むと、職場の喧騒や情報の奔流に逆らうように「沈黙」が立ち上がる。沈黙とは逃避ではなく、問いを深めるための力そのものだった。フランツ・ローゼンツヴァイク『救済の星』は、死と時間と他者の呼びかけをめぐる巨大な試みであり、働きながらも「いま・ここ」の関係性に向き合う私たちの姿を照らす。そしてハンス・ヨナス『責任という原理』は、未来世代に対する責任を突きつけ、日々の仕事の一挙手一投足が次世代にまで影響を及ぼすことを自覚させる。ピカート、ローゼンツヴァイク、ヨナスが並んで迫ってくるとき、働くことは個人の生計にとどまらず、人類史的な応答責任として姿を現すのだ。

これらの読書は、働く人間にとっての酸素ボンベであり、時には救命具でもある。後ろめたさを感じるどころか、これらを読まなければ沈んでしまうのだ。

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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