読書ブログ|イリイチと積極的自由の再発見
本記事は「読書ブログシリーズ」第2部・文学のズレの一篇である。
ここでは思想家イヴァン・イリイチの議論を手がかりに、「積極的自由」を再考する。
アイザイア・バーリンが批判したこの概念を、イリイチはむしろ肯定的に展開する余地を示した。
バーリンの批判
政治哲学者アイザイア・バーリンは「消極的自由」と「積極的自由」を区別した。
「他者に干渉されないこと(消極的自由)」に対し、
「自己を実現する自由(積極的自由)」はしばしば権威主義や全体主義につながる危険をはらむと批判した。
「積極的自由の名のもとに、人は他者に服従を強いる」
梟コメント:
バーリンにとって積極的自由は「危うい誘惑」であった。
イリイチの自由論
20世紀の思想家イリイチは、制度批判の文脈で「自由」を語った。
学校、医療、交通などの制度が人間を依存に導くとき、そこでは自由が失われる。
彼にとって自由とは「制度から自立し、他者と相互に関わる生活の可能性」であった。
「道具を友として使うとき、人は自由である」
梟コメント:
イリイチの自由は、制度を超えて自らの生活を織り上げる営みに宿る。
積極的自由の再発見
イリイチの思想を通じて見ると、積極的自由は「自己実現の強制」ではなく、
「共同体的な自立性」として再発見される。
それは、依存を強いる制度への批判と、自由を共有する実践とを結びつける。
梟コメント:
積極的自由を「他者への服従」ではなく「ともに生きるための余白」と読むこと。
これがイリイチから得られる逆転の視点である。
読書と自由
読書は「消極的自由」においては孤独な時間の確保であり、
「積極的自由」においては、自らの問いを紡ぎ出す営みとなる。
イリイチ的に言えば、本を読むことは「制度から贈られる知識」に従うのではなく、
むしろ「生活の中で問いを生み、他者と共有する実践」である。
結び
積極的自由を再発見することは、読書を「制度化された教育の一部」としてではなく、
「生活と共同体を編み直す行為」として捉え直すことである。
イリイチはその可能性を示し、私たちの読書を解放する。
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