読書ブログ|ベケットを読んでボケッとする倫理
第2部「文学と孤独の読書」の一篇。
ベケットは『ゴドーを待ちながら』で有名だが、彼の文学を読むとき、
私たちはどうしても「待つこと」「何も起こらないこと」と向き合わざるを得ない。
この「ボケッとする」経験こそ、ベケット文学の真髄であり、倫理への入口である。
ゴドーを待ちながら、時間が止まる
『ゴドーを待ちながら』では、登場人物たちはひたすら「待つ」。
だが、ゴドーは来ない。
何も起こらない時間が延々と続く。
この「退屈」「空白」「無意味」は、通常なら否定すべきものとされる。
しかしベケットは、それを文学として舞台に乗せた。
まるで「ボケッとすること」に意味を与えるかのように。
ボケッとすることは逃避か、誠実か
私たちはつねに「生産性」「効率」を求められる社会に生きている。
だがベケットは、それに抗うように「何もしない」ことを書き続けた。
- ボケッとすることは、怠惰なのか?
- それとも、無意味を引き受ける誠実さなのか?
ベケットを読むと、むしろ後者が浮かび上がる。
「意味はない」と断言しながら、その無意味を生き続ける。
そこに倫理が芽生える。
読書日記アプローチから見えること
「ボケッとする」という一見くだらない行為は、
実は読書日記アプローチにおいて重要な経験である。
- すぐに意味を求めず、ただテキストに身を置く。
- 無駄な時間のように思える読書を、そのまま受け入れる。
- 「成果」や「効率」に回収されない読書を味わう。
このとき読書は、ただの知識習得ではなく、存在を生きる実験になる。
梟コメント
「ボケッとすること」に耐えることは、現代人にとって難しい。
スマホを見れば情報は無限に流れ、空白を埋めてしまうからだ。
だからこそベケットを読むことは、逆説的に現代的な挑戦になる。
「何も起こらない」ことを笑い飛ばすのではなく、
そのまま抱え込む――そこにこそ倫理がある。
結び
ベケット文学は、退屈や無意味を突きつける。
だが、私たちがその中で「ボケッとする」ことを許容するとき、
実はそこに、もっとも人間的で誠実な倫理が立ち上がる。
■株式会社白水社
公式HP:https://www.hakusuisha.co.jp/
公式X(旧 Twitter):https://twitter.com/hakusuisha?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor
コメントを送信