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読書ブログ|公共性と返品不可能性の読書

本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。

「返品不可」という言葉は、単なる商取引の条件にすぎないように見える。
だが私はそこに、倫理や公共性の本質に関わる含意を読み取ってしまう。
なぜなら、私たちの言葉や行為は、いったん社会に投げ出されれば、決して取り消すことのできないものだからだ。


返品不可能性の倫理

人は誰しも「間違った言葉を言ってしまった」と後悔することがある。
しかし、それを完全に取り消すことはできない。
謝罪も訂正も可能だが、それは「上書き」であり、「削除」ではない。

つまり倫理は、不可逆的な出来事としての言葉や行為をどう引き受けるかに宿る。
返品できないことを前提にしてこそ、誠実さや責任感が生まれるのだ。


公共性と不可逆性

公共空間に投じられた発言や行為は、私的なもの以上に「返品不可能性」を帯びる。

  • 発言は記録され、引用され、拡散される。
  • その影響は、本人の意図を超えて広がる。

この不可逆性を無視しては、公共性の意味を理解できない。
公共性は「みんなで共有できる空間」ではなく、取り返しのつかない言葉が交錯する場としてとらえ直されるべきだ。


読書日記アプローチの視点

読書日記における「感想」や「考察」もまた、書いた瞬間に自分から離れ、読む者に届く。
そこには返品の余地がない。
この緊張感が、逆に読書行為を公共的な営みに変えていく。

読書日記アプローチとは、返品不可能な言葉をあえて書き残し、その責任と共に生きることなのだ。


梟コメント

私は「返品不可能性」を、失敗や誤解を恐れることではなく、誤配を受け入れる契機と考えている。
読書の記録もまた、意図しない形で誰かに届く。
その「誤配」こそが、公共性を生きる私たちに必要な余白なのではないか。


結び

公共性とは、返品不可能な言葉と行為の網の目である。
だからこそ、私たちは慎重であると同時に、大胆でなければならない。

返品不可能性を抱えた読書の実践は、公共性における倫理的責任を思索するための小さな訓練になるのだ。

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この記事もまた、読書梟の読書ブログの一ページとして積み重なっていきます。

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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