制度は形式を与え、倫理は応答を求める。
だがそのあいだには常に「隙間」がある。
制度に従えば正しいのに、倫理の声は別の応答を迫ってくる――その緊張こそが、読書の現場にも現れる。
制度の力と限界
制度は人間の行為を規定し、社会の枠組みを維持する。
法律、学校、企業、家族――いずれも「ルール化された秩序」の中で私たちを導く。
だが制度はしばしば、形式に忠実であるがゆえに倫理の訴えを排除する。
たとえば難民認定制度は書類上の条件を満たさなければ申請を却下するが、
その背後には「逃げざるを得ない人間の苦しみ」がある。
倫理の声
倫理は「誰が傷ついているか」に応答する。
制度が見落とす個々の事情に耳を傾け、形式を超えた判断を促す。
だがその声はしばしば「曖昧」すぎるがゆえに、制度に吸収されない。
この緊張が、「制度と倫理の隙間」という場所をつくる。
読書日記アプローチの発見
私は本を読むとき、この「隙間」に敏感になる。
法律学のテキストを読んでいても、小説を読んでいても、
登場人物や事例の背後に「制度では救えない痛み」を見てしまう。
読書日記に書くとき、その隙間はしばしば余白やため息として残る。
形式に従えばわかりやすいのに、どうしても言葉が揺れるのだ。
梟コメント
私は思う。
読書とは制度のように「秩序化された知識」でもあり、倫理のように「声に応答する営み」でもある。
だが決定的なのは、そのどちらにも収まらない隙間に立ち続ける姿勢だ。
この揺らぎこそ、読書を読書たらしめる。
結び
制度と倫理の隙間は、単なる矛盾ではない。
そこは思索が生まれる空白であり、読書が呼吸する空間でもある。
読書日記アプローチは、この隙間を「欠陥」ではなく「可能性」として記録する試みである。
制度に従いながら、倫理の声に応答する。
その往復こそが、読書の自由を支えている。