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読書ブログ|太宰治『人間失格』の再読日記

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

本記事は「読書ブログシリーズ」第2部・文学と孤独の読書の一篇である。
太宰治の代表作『人間失格』を、再読の視点から捉え直す。
初読の衝撃から距離を置いたとき、この作品はどのように響いてくるのだろうか。


初読の衝撃と再読の静けさ

初めて『人間失格』を読むと、多くの人はその告白的な文体と虚無感に圧倒される。
しかし再読すると、衝撃はやわらぎ、代わりに細部に宿る倫理の問いが立ち上がってくる。

「恥の多い生涯を送ってきました」

この有名な冒頭の一文も、再読のときには「人間失格」という自己規定ではなく、
人間であろうとする苦闘の記録として読めるのではないか。


孤独と仮面

太宰の主人公・葉蔵は、孤独を仮面によって隠し続ける。
その仮面が剥がれ落ちたとき、人間失格という言葉が現れる。

だが再読者の私たちは、仮面を責めるよりも、
「なぜ仮面を必要としたのか」という問いを抱くことになる。
そこに孤独の深さと、文学の倫理が立ち現れる。


読書日記アプローチの視点

読書日記アプローチでは、感想よりも問いを残すことが重視される。
再読によって浮かぶ問いは、こうしたものだ。

  • 「人はなぜ自己を失格とまで呼ぶのか?」
  • 「孤独を抱えることと、人間であることは矛盾するのか?」
  • 「文学は自己否定をどう共同性へと変換するのか?」

問いは正解を求めない。
むしろ答えのなさが、人間の不完全さを映す鏡となる。


梟コメント

『人間失格』を再読することは、自分自身の孤独を再読することでもある。
太宰の絶望は、ただの虚無ではなく、孤独を生き延びるための必死の形式だった。
そこに触れるとき、文学は孤独を共有するための装置となる。


結び

再読とは、かつての自分と再び出会うことでもある。
太宰の『人間失格』は、読者の孤独を映し出し、その孤独を倫理の問いへと転じさせる。

■株式会社新潮社

公式HP:https://www.shinchosha.co.jp/

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それが文学と孤独の読書の力である。

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こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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