読書ブログ|形式と内容のズレを楽しむ読書
本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。
読書には、必ず「形式」と「内容」がある。
しかし、それらがぴたりと一致することは稀だ。
むしろ多くの場合、形式と内容のあいだには微妙なズレが生じている。
このズレこそが、読書を楽しくする。
形式と内容の二重奏
- 形式:本の体裁、章立て、ジャンルの枠。
- 内容:そこで語られる物語や議論。
たとえば「大真面目な論文の脚注に、著者の個人的な嘆きがこっそり書かれている」とき、形式と内容の間にズレが走る。
読者は思わず笑ったり、妙に親しみを感じたりする。
読書日記アプローチと「ズレ」
「読書日記アプローチ」は、このズレを「誤り」ではなく「贈り物」として受け止める。
- 形式の硬さを、内容が裏切る瞬間。
- 内容の深刻さを、形式が軽やかに支える瞬間。
- 読者が勝手に作り出してしまう、読みと形式のねじれ。
ズレは違和感であると同時に、創造の余白でもある。
文学的ギャグの源泉
文学的なギャグやユーモアも、この「ズレ」に根ざしている。
- 「じっとできないからジッド読む」
- 「焦りすぎてアリストテレス」
こうした遊びは、形式(名前)と内容(状況)のねじれが生む小さな笑いだ。
ズレを恐れるよりも、楽しむほうが豊かである。
制度と倫理のズレ
制度は形式を好む。倫理は内容を問う。
両者のあいだには、しばしば取り返しのつかないズレが生まれる。
だが、その隙間でこそ「人間的なやりとり」が芽生える。
返品できない誠意や、思わぬ誤配は、形式と内容の不一致から生まれる倫理の芽吹きだ。
ズレの快楽を受け入れる
読書とは「ズレの快楽」を味わうことだ。
完全に一致した形式と内容は、美しいが退屈でもある。
一方で、ズレを受け止める読書は、いつも驚きと笑いを運んでくる。
結びにかえて
「形式と内容のズレを楽しむ読書」とは、
読書を「誤配の出来事」として喜ぶ姿勢だ。
ズレは、誤りではなく呼吸口である。
そこから吹き込む風が、読書を日記へと変える。
この記事もまた、読書梟の読書ブログの一ページとして積み重なっていきます。
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