読書ブログ|文学ギャグの快楽と倫理
この読書ブログ「読書梟」では、日々の読書を通じて考えたことを記録しています。
第2部「文学と孤独の読書」も終盤。
ここでは一見軽やかな「文学ギャグ」を取り上げ、
その裏に潜む倫理と読書の感性について考えてみたい。
文学ギャグの系譜
「じっとできないからジッド読む」
「ベケットを読んでボケッとする」
「焦りすぎてアリストテレス読む」
こうした言葉遊びは、単なるダジャレではなく、
文学の持つ響きやリズムを戯画化しながら、
読書体験そのものを軽妙にズラす。
言葉の響きを笑いに転化することは、
読書の固さを和らげると同時に、
文学が持つ「形式のズレ」を浮かび上がらせる。
快楽としての文学ギャグ
文学ギャグには独特の快楽がある。
それは知識の誇示ではなく、
語感のズレを共有する遊びの快楽だ。
- 笑いが知識を軽くする
- 語呂合わせが文学を日常に引き寄せる
- ちぐはぐさが新しい意味を生む
笑いの背後には「文学は近寄りがたい」という固定観念を揺さぶる力がある。
倫理としての文学ギャグ
しかし文学ギャグは、ただの軽薄さでは終わらない。
語感のズレを笑いに変える行為は、
文学の権威を解体し、同時に読書の公共性を広げる。
- 難解さを笑いでほぐす
- 権威を戯画化して距離を縮める
- 笑いを通じて共有可能性を開く
文学を笑いの場に引き下ろすことは、
読書を独占しないための倫理的態度でもある。
梟コメント
文学ギャグの快楽は、倫理と切り離せない。
笑いは「誰もが参加できる」読書の回路をつくる。
そのとき文学は、孤独を破り、
小さな共同性を育む力を発揮する。
文学を笑うことは、文学を軽んじることではなく、
むしろ文学の重さを支える軽さである。
結び
文学ギャグは、快楽であり倫理である。
語感のズレに笑うとき、
私たちは文学を新しい仕方で共有している。
孤独な読書のなかに生まれる小さな笑いが、
倫理の可能性を照らしているのだ。
こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。
コメントを送信