読書ブログ|文学ギャグ大全――読書日記版
本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。
読書はしばしば「深刻さ」の衣をまといがちだ。
だが、言葉のズレや語感の跳躍は、笑いを呼ぶ。
笑いのなかに、むしろ文学の真髄がひそんでいる。
ここでは、私の「読書日記アプローチ」による文学ギャグの小さな大全を記してみたい。
語感で遊ぶ
- 「じっとできないからジッド読む」
焦燥が作家名を呼び寄せる瞬間。 - 「ベケット読んでボケッとする」
不条理演劇の帰結は、日常の倦怠と同義。 - 「焦りすぎてアリストテレス読む」
倫理を探すも、結局ニコマコスに縋る。
語感と心理が偶然に出会うとき、笑いは必然となる。
読書日記アプローチ的視点
文学ギャグは単なる駄洒落ではなく、
読者の「切実さ」と「ズレ」の同居を映し出す。
- 内面の焦りが、作家名の音を引き寄せる。
- 退屈のリズムが、テキストと重なる。
- 過剰な真剣さが、逆に笑いを生む。
読書日記とは、こうした「誤配の瞬間」を拾い集める営みでもある。
梟的セレクション
- 「うそーん、ホーソーン、ベイトソン」
アメリカ文学と人類学が、虚無の発声練習に変わる。 - 「こじれすぎてコジェーヴ読む」
ヘーゲル講義の迷宮は、恋愛相談のようでもある。 - 「プルーストでうっすと寝落ち」
失われるのは時間か、それとも意識か。
ここにあるのは知識の誇示ではなく、
文学と生活のズレが生む小さな破顔だ。
日記的効用
文学ギャグを日記に記すことは、
知識を軽やかに受け流す術でもある。
- 読書が「過剰な真剣さ」に傾くとき、笑いがバランスを取る。
- 語感で遊ぶ瞬間に、哲学も倫理も一息つく。
- それは「返品不可能な読書」の、もうひとつの受け止め方だ。
結び
「文学ギャグ大全――読書日記版」とは、
読書と内面の切実さのあいだにある「ズレの祝祭」である。
真面目すぎる読書を、笑いが救う。
くだらなさに見えて、そこに文学の核心がある。
読書日記とは、文学のシリアスとギャグの両立を許す場なのだ。
こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。
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