読書ブログ|誤配こそ読書の本質である
この読書ブログ「読書梟」では、日々の読書を通じて考えたことを記録しています。
読書とは、つねに「誤配」である。
作者の意図は読者に届かず、読者の受け取り方も作者には還らない。
本は手渡されるたびに、必ずどこかでズレを生む。
だが、この「誤配」こそが読書の本質なのだ。
誤配の力
- 誤解・曲解・脱線。
- 読者が勝手に抱く「意味の飛躍」。
- 引用の間違いから生まれる新しい発見。
これらはすべて、文学にとっての「副産物」ではなく「核心」そのものである。
読書日記アプローチと誤配
「読書日記アプローチ」は、読者の誤配を正当化する実践だ。
- 書き手が誤読を引き受け、むしろ誤配を祝福する。
- 誤配を通じて、他者との共有可能性が開ける。
- 「正しい読解」よりも、「ズレを生きること」を重んじる。
つまり、読書日記は誤配のログブックにほかならない。
誤配と倫理
倫理は形式の盲点に宿る、と私は考えてきた。
それは誤配と響き合う。
- 正確さを超えてしまう読書。
- 文脈を裏切りながらも生き延びる解釈。
- 他者への贈与としての「誤った引用」。
返品できない誠意や愛があるように、
読書の誤配もまた返品できない。
誤配の祝祭
「誤配」という言葉には、ユーモアと悲哀が混じる。
荷物は違う家に届く、本は違う人に読まれる。
だが、そこから思いがけない関係が始まることもある。
誤配とは、世界における「余白」そのものである。
余白がなければ、人は出会えない。
結びにかえて
「誤配こそ読書の本質である」。
この命題は、読書日記を書き続けるうちに確信へと変わった。
読書において私たちは、必ず何かを取り違える。
しかし、その取り違えがなければ、新しい意味も友情も思想も生まれない。
だから私は誤配を恐れない。
むしろ、誤配を引き受けることこそが、読書家の倫理だと考えている。
読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。
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