読書ブログ|読書と倫理と性欲のあいだで
ここは小さな読書ブログですが、ページをめくるたびに世界の見え方が変わる瞬間を残しています。
読書は「知的営み」として語られがちだ。
しかしその根には、もっと生々しい欲望が横たわっている。
「知りたい」という知的欲求は、倫理的な責任と同時に、身体的な衝動=性欲に近い熱を帯びる。
この三つ――読書・倫理・性欲――は遠いようで、実は同じ線上にある。
読書と欲望
- 本を読むことは、まだ知らぬものに触れたい欲望の発露である。
- 欲望の形は「知識欲」と呼ばれ、文化的に浄化されてきた。
- だが、その根底には「触れたい・奪いたい・近づきたい」というエロス的な衝動がある。
読書は禁欲的な顔を装いながら、エロスの横溢で成り立っている。
倫理の介入
欲望のままに読むだけなら、それは消費で終わる。
だが、読書には「責任」が伴う。
- どのように読み取るか。
- どこまで解釈を自分に引き寄せるか。
- 他者=著者の声を無視せずにいること。
倫理とは、欲望をただ否定するのではなく、その力を「間」にとどめることである。
性欲と知欲の交錯
- 性欲は身体を前に押し出す。
- 知欲は言葉を前に押し出す。
両者はともに、自己を外へと開き、他者に触れようとする運動だ。
読書は、知と性の中間にある「触れ方の技術」と言える。
読書日記アプローチとして
私の「読書日記アプローチ」では、この三者を切り離さずに書き残す。
- 倫理的な問い(どう読むべきか)
- 欲望的な動き(なぜ惹かれるのか)
- 身体的な感覚(なぜその言葉に熱を覚えるのか)
を並行して記すことで、読書が「生の経験」として浮かび上がる。
梟コメント
人は、性欲を恥じ、倫理を掲げ、知を正当化する。
だが読書は、この三つがほどよく混じり合ったときに最も豊かになる。
読書の悦びは「ただ知った」ことにあるのではなく、
「欲望しつつ、責任を背負う」ことにある。
結び
読書は清潔でも不潔でもない。
それはエロスとエートスが交錯する場である。
性欲の熱を帯びながら、倫理にとどまり、知へと昇華する。
その往復こそが、読書の真の営みである。
こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。
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