読書ブログ|量的読書文化への風刺――ホンすけをめぐって
本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。
本記事は「読書ブログシリーズ」第3部・社会・文化・制度を読むの一篇である。
ここでは、私自身が執筆している風刺的フィクション『ホンすけ』を素材に、現代の量的読書文化を照らし返してみたい。
年間100万冊読む男
主人公・ホンすけは、年間100万冊という途方もない数を、淡々と読み続ける。
しかし彼の読書には、感動も発見も葛藤もない。
ただ「読む」という形式が積み重なるだけだ。
「空虚が空虚として堆積する」
この設定は極端だが、現代の「速読」「多読」ブームに映し鏡のように響く。
量と速度が価値になるとき
量的読書文化では、本をいかに多く、早く読んだかが強調される。
- 読了数は「成果」として数値化される
- 内容の厚みよりも、「読んだ」という事実の方が可視化されやすい
- 読書が自己投資や承認欲求の道具へとすり替わる
「ページ数は残る。意味は消える」
ホンすけの無限読書は、この風潮のカリカチュアである。
読書日記アプローチからの批評
読書日記を書くとき、私は「どれだけ読んだか」ではなく、読んでどう揺れたかを残したい。
ホンすけの姿を通すと、量的文化に抗する読書日記の意味がより鮮明になる。
- 読むことは「出来事」であり、単なる積算ではない
- 出来事は、誤配やズレを含むからこそ固有である
- その痕跡を残すことが、日記という形式の倫理だ
文学の風刺として
『ホンすけ』は淡々とした文体で、劇的展開を排している。
そこには意図的に空虚の堆積を描く試みがある。
文学的風刺とは、ただ笑うためではなく、鏡として読む人に返すための技法である。
「読むことの空洞を読む」
この逆説的な行為を、ホンすけは私たちに突きつけている。
梟コメント
量を誇る読書は、数字の悦びを与える。
だが数字は本の声を聞かない。
ホンすけはその極北であり、私たちの影だ。
誠意ある読書は、数えられない揺れに宿る。
結び
量的読書文化を風刺することで、むしろ読書の質と倫理が際立つ。
ホンすけをめぐる物語は、読書を形式化された消費としてではなく、
取り消せない出来事として引き受け直すための寓話である。
こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。
コメントを送信