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白いウェーバーを積んで眠るなら、パーソンズを経てルーマンを読め

ここは小さな読書ブログですが、ページをめくるたびに世界の見え方が変わる瞬間を残しています。

東大生が街にあふれる教養書(自己啓発寄り)をバカにしているみたいですが、彼等もウニベルシタスや岩波文庫白シリーズをまんべんなく読んでいるとは思えません

おっしゃる通りですね。
街に並ぶ「教養書」や自己啓発寄りの本を「東大生がバカにしている」という構図はよく見かけますが、では彼らが実際に岩波文庫の白シリーズや「叢書・ウニベルシタス」を体系的に読んでいるかといえば、そこはかなり疑わしいでしょう。

1. 「バカにする」ポーズと実際の読書

  • 東大生に限らず、知識人を志す学生が「世間にあふれる軽めの教養書」を見下すのはある種の通過儀礼のようなものです。
  • ただしそれは往々にして「自分がまだ十分に古典や専門書を読めていない」ことの裏返しであり、「本物」を読んでいる保証にはなりません。

2. 白シリーズやウニベルシタスのハードル

  • 岩波文庫白シリーズやウニベルシタスは、翻訳の文体が硬く、予備知識も求められ、読み通すのにかなりの忍耐を要します。
  • 「読んでいる」と言っても実際はつまみ食い的に拾い読みしている場合が多いはずで、全体を体系的に通読している人は少数派です。

3. 教養市場と「選書の仕草」

  • 自己啓発寄りの「教養書」は、まさに「専門書の世界にたどり着けないが、何かしら学びたい」層に向けて書かれています。
  • 東大生がこれを嘲笑するのは、「自分たちはそちら側ではない」というアイデンティティの演出に過ぎず、必ずしも実際の読書量や内容に裏付けられているとは限らないのです。

要するに、「軽い教養書を馬鹿にする東大生」も、「重い古典を本当に読んでいる東大生」も、それぞれ一部にしか存在しない。大多数はその中間――白シリーズを数冊かじり、同時に新書や読みやすい教養書も読んでいる、というのが現実だと思います。

👉 読書梟さん、この点をブログで論じるなら、

  • 「バカにする仕草」=知的ポーズ
  • 「読むべき本」=現実には体系的に読まれていない
  • 「教養市場」=軽重の階層を演出する舞台

といった三層構造で描き出すと、面白い批評になると思います。

ご自身の「叢書・ウニベルシタス50冊選定プロジェクト」と絡めることもできそうですが、その方向に話を広げましょうか?

たのんます

了解です!では「東大生が軽めの教養書をバカにする」現象と、読書梟さんの「ウニベルシタス50冊選定プロジェクト」とを絡めて、批評的に展開できる骨組みを作ってみますね。


◆構成案:軽教養批判と「ウニベルシタス50冊」の対比

1. 「バカにする仕草」の分析

  • 街にあふれる教養書(自己啓発寄り)を嘲笑するのは、知的ポーズ。
  • これは「自分はそちら側ではない」という距離の取り方であり、同時に「本物を読んでいる」という暗黙の演出。
  • しかし実際には、岩波文庫白シリーズやウニベルシタスを“まんべんなく”読む者は稀。むしろ数冊をつまみ食いして、あとは大学の必修で読んだ古典で威張っている程度。

引用用フレーズ案:「軽蔑のポーズは、教養を読む手間を省くための最短コースである。」


2. 「軽い教養」と「重い教養」の演出空間

  • 日本の出版市場は「分厚い古典」と「わかりやすい新書・教養書」の二極に分かれている。
  • 前者は「象徴資本(ブルデュー風に)」としての存在感、後者は「即効性のある学び」としての実用性。
  • 東大生の軽蔑は、この二極の“境界”で起こる演劇的なジェスチャーに過ぎない。

例:電車内で『ウニベルシタス』を開いて居眠りする――それ自体が「演出」としての読書。


3. 読書梟的提案:「ウニベルシタス50冊選定」

  • そこで読書梟さんの「50冊選定プロジェクト」が光る。
  • これは「実際に読む」ための地図であり、軽い教養書や知的ポーズを超える試み。
  • 「50冊」という具体的数値は、曖昧な「古典を読め」よりも挑戦しやすく、しかも体系的に学問分野を横断できる。
  • この選定自体が「教養市場における批評」として機能する。

4. 結論:読書の「中間領域」を肯定する

  • 軽い教養書を馬鹿にしても、重い古典を全部読んでいるわけではない。
  • だとすれば「両者の中間」こそが多くの読書人の実践の場。
  • 読書梟さんの「50冊選定」は、この中間領域を「批評的に肯定」する試みであり、単なる蔑みやポーズではなく、読書のリアルを形にするもの。

👉 この流れで文章化すれば、

  • 前半は「東大生の軽蔑ジェスチャー」の批判的観察
  • 後半は「読書梟的オルタナティブ(50冊プロジェクト)」の提示

という二段構えで、読書日記アプローチの批評性と独自性を出せると思います。


ご希望なら、この構成で実際のブログ本文の草稿(批評調+ユーモア入り)を書き起こしますか?それともまずは50冊リストとのリンクの付け方を細かく考える方が良いですか?

後者で

なるほど!了解しました。
では「ウニベルシタス50冊リスト」と、さきほどの「軽教養批判/中間領域肯定」の議論をどうリンクさせるか、いくつか仕掛け方を提案しますね。


◆リンクの付け方(アイデア集)

1. ジャンルごとの「中間領域」指定

  • 50冊をジャンル別に並べて、各ジャンルに「軽い教養書→古典→ウニベルシタス」の連続線を引く。
  • 例:
    • 倫理学:軽→「13歳からの倫理学」/重→アリストテレス『ニコマコス倫理学』/中間→シェーラー『価値の秩序』
    • 社会学:軽→池上彰の社会学解説/重→ウェーバー『経済と社会』/中間→ルーマン『社会の社会』

こうすると「軽蔑される教養書」と「読み切れない古典」の間に、読書梟的な“選書の橋”が見える。


2. 「入口としての軽教養」肯定

  • あえて「軽教養書を読むのは無意味ではない」と書く。
  • その上で、「次の一歩」としてウニベルシタスを提示。
  • 例:
    • 「マルクスが気になる人は、○○の一般向け解説から→ウニベルシタス版『資本論』へ」
    • 「ニーチェに興味を持ったなら、△△の新書を読んだあとに→『悲劇の誕生』」

これで「軽教養→重古典」のギャップを埋められる。


3. 「蔑みのポーズ」との対比

  • 「東大生が教養書を馬鹿にする」のは、白シリーズやウニベルシタスを“まんべんなく読んでいるから”ではなく、“読んでいないのに威張っているから”と指摘する。
  • その対比として「読書梟は読んでからリスト化した」と宣言できる。
  • つまり「演出ではなく実践としての教養」の証拠にする。

4. 「体系性」と「選択」の強調

  • 軽教養書は体系性がなく断片的、古典は重厚すぎて全体像がつかめない。
  • 「50冊リスト」はその中間であり、分野横断的に“読書の地図”を提供する。
  • ここで「体系的に読んでいる人は稀」という冒頭の話ときれいにリンクする。

5. ブログの表現上の仕掛け

  • 各記事で軽教養本(市販の新書など)をワンフレーズで取り上げ、その直後にウニベルシタスの対応する1冊を紹介。
  • 「この本を馬鹿にする東大生は、では次にこれを読んでいるのか?」という問いを挟む。
  • それに対して「読書梟は読んでみた」と返すスタイル。
  • 批評性+読書実践の可視化が両立する。

👉 まとめると、

  • 「軽教養批判」→「ウニベルシタスで橋渡し」
  • 「中間領域の肯定」→「50冊リストの体系性」
  • 「ポーズ批判」→「読んだ証拠としてのリスト提示」

この3点を絡めるのが一番強いと思います。


質問ですが、読書梟さんがブログ記事にするときは:

  • **リストを丸ごと提示(一覧表形式)**したいですか?
  • それとも記事ごとに数冊ずつ分けて紹介(教養書→古典→ウニベルシタスの“橋渡し”形式)にしたいですか?

それにしましょう

いいですね!では **「記事ごとに数冊ずつ分けて紹介」**という形で、
軽教養本 → 古典 → ウニベルシタス(橋渡し)
の三段組で展開する方法を、具体例で見てみましょう。


◆記事フォーマット案

1. 導入

  • 街にあふれる「軽い教養書」をまず一冊ピックアップ。
  • 「東大生がバカにするのはこういう本」という形で登場させる。

2. 古典の位置づけ

  • そのテーマの「真正の古典」を対置。
  • ただし「これは普通は読めない・読みにくい」と正直に書く。

3. ウニベルシタスの橋渡し

  • 「軽い教養」と「重すぎる古典」のあいだに、読書梟的に選んだウニベルシタスを置く。
  • 「これなら理論的な厚みがありつつ、現代の教養にも接続できる」と位置づけ。

◆例(社会学)

  • 軽い教養書:池上彰『知らないと恥をかく世界の大問題』
    → 東大生が「軽い」とバカにする典型。
  • 古典:マックス・ウェーバー『経済と社会』(岩波文庫白)
    → 本格的すぎて挫折率が高い。
  • ウニベルシタス:ルーマン『社会の社会』
    → 中間領域。現代的かつ理論的厚み。

◆例(哲学)

  • 軽い教養書:「13歳からの哲学」シリーズ
  • 古典:アリストテレス『ニコマコス倫理学』(白シリーズ)
  • ウニベルシタス:シェーラー『価値の秩序』

◆例(思想史)

  • 軽い教養書:中公新書『ニーチェ入門』
  • 古典:ニーチェ『悲劇の誕生』
  • ウニベルシタス:ハイデガー『ニーチェ』

◆展開の仕方

  • 1記事=2〜3セット(軽→古典→ウニ)を並べる。
  • 「バカにする仕草」と「中間領域の肯定」を対比的に描く。
  • 記事シリーズを続ければ、最終的に50冊リスト全体を読者に提示できる。

👉 こうすれば、

  • 読書梟さんの「批評性」も出る
  • 「リストを押しつけない」柔らかさもある
  • 読者が実際に一冊選んで読んでみたくなる

という三拍子がそろいます。


ご相談ですが、このシリーズのタイトルをどうするか決めませんか?
例えば:

  • 「軽教養からウニベルシタスへ」
  • 「教養書をバカにする前に読むべき本」
  • 「中間領域の教養案内」

など。雰囲気を「批評寄り」にしますか? それとも「案内書寄り」にしますか?

批評寄りで

了解しました!批評寄りでいくなら、「東大生の軽蔑ポーズ」と「読書梟の中間領域」を対比させるような、少し皮肉と批評眼を込めたタイトルがいいですね。いくつか案を出してみます。


◆シリーズタイトル案(批評寄り)

  1. 「軽教養を嗤う者、読書の中間を知らず」
     ― ポーズ批判を前面に出しつつ、中間領域の重要性を提示。
  2. 「教養の演劇を超えて――軽蔑と実践のあいだで」
     ― 「演劇(パフォーマンス)」という批評用語で、知的ポーズを切る。
  3. 「白い岩波を積んで眠る東大生、ウニベルシタスを読む読書梟」
     ― 対比をユーモラスに、かつ批評的に描き出す。
  4. 「バカにする仕草と読む努力――中間領域の読書論」
     ― タイトルだけで「仕草=ポーズ」「努力=実践」の対立が見える。
  5. 「軽教養批判を批判する――ウニベルシタス50冊の射程」
     ― メタ批評調。「批判を批判する」という二重性で響きを強める。

👉 個人的には、読書梟さんの文体や「ユーモア+批評」を考えると、3か5あたりがしっくり来る気がします。

  • 3は「批評+文学的ユーモア」
  • 5は「学問的批評のメタ視点」

ご質問ですが、このシリーズは 最初に「枠組みの宣言」記事(軽教養批判と中間領域の肯定)を書いた上で、
第2回以降で具体的に「軽→古典→ウニ」の3点セットを紹介する、という流れにしますか?

3で

いいですね!
ではシリーズタイトルは

「白い岩波を積んで眠る東大生、ウニベルシタスを読む読書梟」

で決まりですね。批評性とユーモアが同居していて、読者の目を惹くと思います。


◆シリーズ構成イメージ

序論(第1回)

  • タイトルと同名の記事を最初に置く。
  • 論点整理:
    1. 東大生が軽教養をバカにする仕草=知的ポーズ
    2. 白シリーズやウニベルシタスを“積んで眠る”現実
    3. 読書梟的実践として「50冊選定」を提示

→ この「宣言的序章」で、以降の記事の批評的トーンを決定づける。


展開(第2回以降)

  • 各記事で 2〜3セット を紹介:
    • 軽教養書 → 古典 → ウニベルシタス
  • 例:
    • 池上彰の新書 → ウェーバー『経済と社会』 → ルーマン『社会の社会』
    • 中公新書「ニーチェ入門」 → 『悲劇の誕生』 → ハイデガー『ニーチェ』

→ 「バカにする仕草」と「読む努力」を毎回対比的に見せる。


結語(最終回)

  • 「50冊リスト」の全体像を表にして提示。
  • シリーズを通して、「軽教養を嗤うのではなく、中間領域を読む」という読書倫理をまとめる。

👉 ここで質問です。
第1回の序論記事、つまり「白い岩波を積んで眠る東大生、ウニベルシタスを読む読書梟」を、宣言文調でバシッと書き起こすのは、次のステップとしてやってしまいますか?

やりましょ

承知しました!
では「宣言文調」で、第1回の序論記事草稿を書きますね。
批評性を前面に出しつつ、ユーモアも織り交ぜてあります。


白い岩波を積んで眠る東大生、ウニベルシタスを読む読書梟

街の書店に山積みされる「教養本」。その多くは自己啓発の衣をまとい、学問の断片を器用に並べ替えている。
東大生たちは、それを小馬鹿にする。――「そんな薄っぺらな本を読んでも、教養にはならない」と。

だが彼らは本当に、岩波文庫の白シリーズをくまなく読んでいるのか?
あるいは叢書・ウニベルシタスを、ページの最後まで読み通しているのか?

答えは否である。

多くの場合、「白い背表紙の威光」を机に積み重ね、眠り込むのが関の山である。積まれた書物は知識ではなく、眠りの枕となる。バカにする仕草はあっても、読む努力はそこにない。


私はここに、「中間領域の読書」を肯定することを宣言する。

  • 軽教養を嗤うだけでは、何も積み上がらない。
  • 古典を抱えて眠るだけでは、知は開かれない。

そのあいだにこそ、読書の現実的な道がある。
それを私は、叢書・ウニベルシタスの50冊に託した。

ウニベルシタスは難解だ。しかし「古典より読めるが、軽教養より深い」。その中間に位置する。
この中間領域を橋渡しとして歩むことが、私の読書日記アプローチである。


シリーズでは、毎回こう問いかける。

  • この「軽教養書」を東大生はバカにする。では彼らは次に何を読むのか?
  • 白シリーズを積んで眠るかわりに、どの一冊に取り組めばよいのか?

その答えとして、私はウニベルシタスの一冊を提示する。
それは演出ではなく、実践の証拠である。


軽蔑のポーズを超えよ。
中間領域を読む者だけが、知の橋を渡れる。

白い岩波を積んで眠る東大生を横目に、読書梟はウニベルシタスを読む。


👉 ここから次回以降、「軽→古典→ウニ」の具体例(2〜3セット)に入っていく流れになります。

読書梟さん、この宣言文のトーンはイメージに合っていますか?
それとももう少し辛辣寄りユーモア寄りに調整しましょうか?

このままで

了解しました!
ではこのままを「第1回:宣言文」として据えて、次回以降に「軽→古典→ウニ」の具体例を展開していく流れで進めましょう。


次のステップとしては:

  • テーマごとに最初に取り上げる3点セット(例:社会学、哲学、思想史など)を決める
  • 記事本文でそれを「軽教養 → 古典 → ウニベルシタス」と並べる
  • 各記事の最後に「東大生はここで眠る、読書梟はここで読む」とオチをつける

といったリズムがよさそうです。

👉 次の記事では、どのジャンル(社会学・哲学・思想史など)から始めますか?さ

社会学で

了解しました!では第2回は社会学編ですね。
宣言文の流れを受けつつ、以下の構成で草稿を提案します。


白い岩波を積んで眠る東大生、ウニベルシタスを読む読書梟(第2回・社会学編)

街にあふれる「社会をわかりやすくする本」。池上彰の解説書や、某新書の「現代社会入門」などは、読者に社会を語る手軽な窓口を与える。東大生はそれを「薄っぺらい」と鼻で笑う。

だが彼らが代わりに読みこなしているのは、マックス・ウェーバーの『経済と社会』だろうか。岩波文庫白シリーズに収められたこの古典は、分厚さと難解さで読者を挫折へと追いやる。机に積んで眠るには格好の道具だが、知の血肉にするには気力が要る。


私はここで「中間領域」を提示する。
それが、**ルーマン『社会の社会』(叢書・ウニベルシタス)**である。

ルーマンの社会システム論は、決して平易ではない。だがウェーバーの古典に比べれば現代的な視点をもち、同時に軽い入門書のように時事ネタでごまかすこともない。
社会とは「コミュニケーションの連鎖」である――その鮮烈な転換は、池上的要約とウェーバー的古典のあいだを橋渡しする。


まとめ:社会学における三段構え

  • 軽教養:池上彰『知らないと恥をかく世界の大問題』
  • 古典:マックス・ウェーバー『経済と社会』(岩波文庫白)
  • 中間:ルーマン『社会の社会』(叢書・ウニベルシタス)

東大生は、池上彰をバカにする。
白いウェーバーを積んで眠る。
だが、ルーマンを読む読書梟は、社会を別の角度から見通すのだ。


👉 この形で「社会学編」をベースにして、記事化できます。
次は「哲学編」「思想史編」と続ける流れを考えていますが、読書梟さんとしては **次回は哲学(倫理・価値論)**にしますか? それとも **思想史(ニーチェなど)**に進みますか?

タルコット・パーソンズで

なるほど!社会学編をパーソンズで組み立てるのですね。ウェーバー→ルーマンに直行するよりも、「アメリカ社会学の巨人」としてのパーソンズを経由する方が流れとして厚みが出ます。では、第2回の社会学編を タルコット・パーソンズ中心にした草稿を組んでみます。


白い岩波を積んで眠る東大生、ウニベルシタスを読む読書梟(第2回・社会学編/パーソンズ)

「社会を体系的に理解する」――そう言えば立派だが、現実の本屋に並ぶのは「社会を一望する」だけの軽い教養書である。たとえばベストセラーになった現代社会入門書。ニュース解説の延長として社会を語るそれは、東大生の目には薄っぺらに映る。

では彼らは本当にウェーバーやデュルケームを丹念に読み込んでいるのか。
白い岩波に並ぶ『経済と社会』『自殺論』を手に取るものの、ページは進まず、積んで眠る光景が常態である。


ここで登場するのが、タルコット・パーソンズだ。
彼は20世紀アメリカ社会学を代表し、ウェーバー・デュルケーム・パレートを統合し「社会システム論」を打ち立てた。代表作『社会的行為の構造』や『社会体系論』は、重厚にして難解、しかし古典社会学を現代的に再構成する試みとして無視できない。

東大生の机上に眠る白いウェーバーと比べれば、パーソンズは「読み切る努力」を要する。だがその努力こそが「社会学を学問として扱う」入り口となる。


そして、読書梟はさらに一歩進めて、**ルーマン『社会の社会』(叢書・ウニベルシタス)**に手を伸ばす。
パーソンズの機能主義的枠組みを継ぎつつ、それを徹底的に転倒させたのがルーマンのシステム理論である。
社会を「人間の集まり」と見るのではなく、「コミュニケーションの自己生成」と捉え直す大胆な試み――これは、軽い入門書の視野からは決して見えてこない。


まとめ:社会学における三段構え

  • 軽教養:現代社会入門書(ニュース解説型)
  • 古典:マックス・ウェーバー『経済と社会』(岩波文庫白)
  • 中間:タルコット・パーソンズ『社会体系論』 → ルーマン『社会の社会』(叢書・ウニベルシタス)

東大生は入門書を嗤う。
白いウェーバーを積んで眠る。
だが読書梟は、パーソンズを経由してルーマンを読む。

それが「軽蔑のポーズ」を超える、中間領域の読書なのだ。


👉 こんな流れにしてみました。
ポイントは、ウェーバー→パーソンズ→ルーマンと「系譜の線」を描くことで、「50冊リスト」の必然性を見せられるところです。

次の展開としては、**哲学編(アリストテレス・シェーラー・現代倫理学)に行きますか?それとも思想史編(ニーチェ・ハイデガー)**に進めますか?

読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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