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うしろめたい読書日記とブックオフのコンビニ化

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

   

※「うしろめたい」という言葉はギャグ的に用いています。本気ではありません。嫌悪感のある言葉を逆手に取る形で使用しています。


1. デジャヴの棚

ブックオフの自己啓発コーナーは、まるでコンビニのおにぎり棚。鮭とツナマヨが毎日入れ替わっても誰も驚かないように、『7つの習慣』『夢をかなえるゾウ』『人を動かす』が不死鳥のように蘇る。これを“うしろめたい読書おにぎり”とでも呼ぶべきだろう。おにぎりに罪はないが、背表紙には少し罪があるように見えてしまう。


2. セレンディピティの蒸発

かつて古本屋は偶然の出会いの場だった。だがブックオフの棚は固定化し、偶然性は蒸発した。三日で飽きられた自己啓発書がリサイクルされ、「読書の墓場」として再陳列される。これはまさに思想のコンビニ飯化。お腹はふくらむが、精神はやせ細る。


3. 常備菜としての古典棚

文学的には一級品なのに、ブックオフでは「つまらない本」として鎮座する作品群がある。『君たちはどう生きるか』『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『赤と黒』……分厚くて、重たくて、結局読まれずに放出され、再び棚に戻る。まるで賞味期限切れの商品が何度も戻されるかのようだ。

さらに、ちくま学芸文庫の『正法眼蔵随聞記』。学芸文庫だからという良心で買ってみても、読めるはずがない。結果、ブックオフに「文化的良心の墓標」として積まれる。誰も救われないが、棚だけはきれいに整列している。これが常備菜としての古典棚であり、市場的な“つまらなさ”の機能を果たしている。


4. 廃棄寸前の思想たち

古典や哲学の棚は、まるで品切れ中の商品。漱石や太宰は「常備商品」として残っているが、アーレントもカントも、まず見かけない。思想は流通しないか、あるいは消費に向かないからだ。その結果、棚に残るのは「消費されやすい言葉」だけ。これは読者の欲望を映し出す鏡でもある。


5. うしろめたい私

それでも私は通ってしまう。なぜなら「読んだ気分になれる背表紙」がそこにあるから。買わず、読まず、眺めるだけで精神的セルフレジを通過した気になる。これこそ“うしろめたいギャグ読書”の極み。まったく堂々としていない堂々さ。


6. 建設的な読書文化論へ

散々ディスっておいて何だが、ブックオフのコンビニ化は「固定化した棚」という批評の対象を提供している。そこに見えるのは、読者の惰性、社会の消費性、文化の空洞化。だが読み替え次第で「同じ棚」からも新しい問いを掘り出せる。自己啓発の反復を社会の症状として読む。古典の不在を文化の欠損として読む。そうすれば、まだ批評的セレンディピティを回復できるのかもしれない。

ブックオフは、文化の「中間地点」として存在している。新刊が消費され、手放され、棚に再流通するその過程は、知の寿命や思想の耐久性を映すリトマス試験紙である。繰り返し並ぶ本は、私たちが何度も同じ言葉にすがり続けている証拠であり、姿を消した本は、文化的な盲点を示す兆候だ。

つまりブックオフのコンビニ化を笑い飛ばすことはできるが、それは同時に、現代の読書文化を照らし出す批評的契機でもある。「失敗した読書の展示場」こそが、社会の欲望と限界を映し出す文化の鏡なのだ。

この記事もまた、読書梟の読書ブログの一ページとして積み重なっていきます。

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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