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アテンション・エコノミーのジレンマ――「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」批判で実感したこと

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

ある朝、短い批判のツイートを投げたら、想定外の炎がついた。いいねと引用が増え、ブログへの流入は普段の桁を簡単に超えた。数字としては快感に近いが、目の前に積み上がったインプレッションの山を前にして、胸の奥に違和感が残った。これは本当に僕が望んでいたことなのか──。

私たちの注意は有限だ。働けば働くほど時間は(たしかに)多少増えるかもしれない。だが「読める注意」は確実に減る。勤務時間や会議、メール、チャットに脳を使い果たし、帰宅して残るのは微細な断片的刺激にしか耐えられない精神だけだ。そこへ来て、プラットフォームは短く鋭い発言を優先的に拡散する。静かに丁寧に書いたものは可視性を得にくく、結果として実利(読者・収益・影響力)を生みにくい。

この矛盾が生み出すのが、私があなたに示したあのフレーズの核心だ。つまり――働くほど時間が無くなりお金は増える。静かにツイートすれば平和だが得るものは少ない。だから炎上させざるをえない。これは個人のモラルの問題ではなく、注意と経済的インセンティブがぶつかる構造的なジレンマである。


1. 起きたこと:火はいつ、どのように燃えたか

短い一文が火種になった。瞬時に引用され、断片は切り貼りされ、原文の文脈は薄くなった。アクセスのグラフは急上昇し、コメント欄は雑多な感情で満ちた。数値的成功が即座に得られた反面、深い理解や継続的な関心はほとんど生まれなかった。

この瞬間、二つの「同時性」が僕の中でざわめいた。一つは「注目の爆発」としてのアクセスの饗宴。もう一つは、その裏側で起きる「理解の欠落」と「疲弊」である。アクセス数と実質的な対話は必ずしも同期しない。むしろ、アクセスのピークは浅い反応を巻き込みやすく、真の議論はそのノイズの陰に押し流されてしまう。


2. アテンション・エコノミーの構造:なぜ短い炎が広がるのか

プラットフォームは行動と感情の振幅を最優先する。短く感情を揺さぶる文は、アルゴリズム的に拡散しやすい。理由は単純だ。ユーザーの滞在時間や反応率が上がり、プラットフォームのビジネス指標が改善するからだ。

ここで重要なのは、「可視性=価値」ではない点である。可視性は度合いを示すものだが、価値(深い学びや信頼、長期的な支持)は別の軸で測られる。炎上がもたらすのは可視性の急増であり、それが価値を生むか否かは発信者の後続行動に依存する。


3. 炎上とアクセス数のパラレルな関係のじれったさ

炎上は短期的な注目を劇的に生む。しかし、その注目は往々にして“薄い”。サンプルとして考えてほしい:1000のインプレッションのうち、どれだけが本文を最後まで読み、どれだけが考察や行動につながるだろうか。多くはスクロールの中の一瞬の停留、あるいは感情の即時反応で終わる。

アクセス数は可視的な成功指標だが、静かに読む者を増やすことには直結しない。ここがじれったい。僕は読書世界を盛り上げたい。静かな読書文化を守りたい。だが、静寂だけでは公共圏の注目を引けない。だから“うるさい”発信をせざるを得ないと感じる。それは自分の倫理と実利の間で、常に折り合いをつける作業だ。

さらにじれったいのは、炎上が起きたあとに生じるフローである。炎上の波に乗って来た人々は基本的に浅い。だが、その中に少数の真剣な読者が紛れているかもしれない。問題は、その少数を見つけ、長期的支持に繋げるための仕組みを持っているかどうかだ。大きな波は、小さな真実を攪拌してしまう。


4. 私が取った行動と失敗:補填の試み

拡散を観測した後で、僕はすぐに補填の文章を書き、出典と文脈を示す長文を公開した。目的は誤読の修正と、浅い注目を深い探究へ誘導することだった。しかし実際は、補填の公開と同時に新たなノイズが生まれ、補填自体がさらなる断片的反応を呼ぶだけのことも多かった。

学びは二つある。第一に、補填は速ければ速いほど効く。第二に、補填だけでは足りないということだ。補填と並行して、流入をメルマガ登録、読書会、あるいは有料記事への導線へと変換する“出口”が必要である。これがないと、注目は単に一時的な消費となって消えていく。


5. 戦略としての「うるさい読書」:感情を戦術化する

私は“うるさい読書”という言葉を使う。静寂を捨てよということではない。むしろ、静かな読書の価値を守るために、時には大きな声で公共圏に切り込む戦術を持とうという提案である。重要なのは戦術化である。感情を喚起する言葉は道具だ。道具は使い方が重要で、誤用すれば自分と他者を傷つける。

戦術の要点は次の三つだ。

  1. 事前準備:刺激的な一文を投げる前に、必ず補填となる本文や注釈、出典、対話の場を用意する。
  2. 誠実な補填:短期的な注目の後には、責任ある文脈化を速やかに行う。
  3. 変換の仕組み:流入を会員、読書会、メルマガなどへ確実に繋げる導線を持つ。

これらがあるとき、うるさい発信は浪費でなく投資になり得る。


6. 個人の回復力と制度の役割

個人ができることは限られている。朝の15分、通知の断捨離、オーディオブックの活用といった工夫は必要だが、労働時間の長さやプラットフォーム設計といった構造的要因を個人で全部変えられるわけではない。だからこそ、労働政策、メディアリテラシー教育、そしてプラットフォームの透明性と説明責任が重要になる。

制度的介入は簡単ではない。しかし、注目の分配とその代償を可視化すること、企業や社会が『回復のための時間』を保障することは可能であり、急務である。


7. じれったさの正体と、それを超えるための問題提起

じれったさの本質は、二つの時間軸が食い違うことにある。短期の注目を得るための時間軸と、深い読書・学びを育むための時間軸。これらが同じ場で同時に存在しないことが、僕たちを苛立たせる。

ここで問題を投げかける。

  1. もしあなたがメディアの運営者なら、どのような指標を重視しますか?クリック数か、滞在時間か、読了率か、それとも別の何かか。
  2. 炎上を利用して注目を得ることと、長期的な信頼を築くことは両立できるのか。両立させるために必要な具体策は何か。
  3. 働くことで失われる『読む力』を回復するには、個人と組織にどんな変化が求められるか。
  4. 感情を喚起する言葉を使う際の倫理的境界線はどこに置くべきか。
  5. 最後に問う:私たちは静かな読書と公共圏での影響力、どちらをどのように交換可能だと考えるか。

8. 結び:炎の向こうに光を

感情を巻き込み、うるさく切り込むことに抵抗がある人は多いだろう。私自身もためらう瞬間はある。だが、静かな読書だけでは公共圏に届かない現実があるとすれば、それを受け入れた上で戦術的に声を上げることも一つの選択肢である。

重要なのは、声を上げる際に必ず“火の始末”の準備をすることだ。補填する文章を用意し、誤読を解く窓口を整え、得た注目を長期的な価値に変換する仕組みを持つこと。そうすることで、瞬間の炎の中から、持続する光を生み出すことができる。

まずは小さな一歩として、今朝から15分の読書を予定に入れてみてほしい。そしてこの記事を読んだあなたの考えを教えてほしい。どう切り、どこを補填し、どのように変換するつもりか。議論はここから始まる。

(読書梟)

こうして書き残すことは、私にとって読書ブログを続ける意味そのものです。

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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