うしろめたい読書日記から茶化したい読書日記へ
序章 茶化すことでしか書けない
本を読むたびに、真面目に感想を書くことにうしろめたさを覚える。だから私は、茶化すことにした。読書は真剣勝負だと誰もが言うけれど、私はその勝負に最初から降参している。代わりに、本の背表紙を眺めながら「この色合い、カフェオレっぽいな」と思ったりする。それを「批評」と呼べば、立派な読書日記になるはずだ。
第一章 書店にて
本を買った瞬間、読んだ気になる。レジ袋を開けると同時に、脳内ではすでに「感想文」が完成している。問題は、袋から本を出さないことだ。袋ごと積読。それを「インスタレーション」と呼べば、アートである。
書店に立ち寄るとき、私は本を選ぶというより「自分を演出する道具」を物色しているに近い。分厚い哲学書を小脇に抱えてレジに並ぶと、背筋が伸びる。隣の人が恋愛小説を持っていると、なぜか優越感さえ覚える。けれど現実には、分厚さに圧倒されて数ページで挫折する未来が見えている。それでも財布からお金を出すとき、私は一瞬だけ「知的投資家」の仮面をかぶれるのだ。
本棚の並びも罠だ。新刊台にある本は「みんなが読んでいる気配」を漂わせ、平積みの高さがそのまま社会的圧力になる。だから私は手に取ってしまう。買った瞬間にすでに「社会とつながった」気になり、ページを開かなくても共同体の一員に組み込まれる。つまり、書店は読書の前にすでに読書体験を配給してくれる装置なのだ。
そして、そのまま帰宅すると、本は袋ごと積まれてゆく。未開封のまま横たわる袋は、やがて小さな遺跡のようになる。私はそれを見て、「これは積読ではなく、インテリアだ」と自分に言い聞かせる。袋は封印、積読は儀式。そうやって誤魔化し続けることで、読書しないことすら一種の芸術に仕立て上げているのである。
第二章 読書の体裁
電車で開いたページを一文字も追わず、窓に映る自分の「読んでる顔」だけを見ていた。「読書とは顔芸だ」と書けば、文学理論っぽくなる。
私はときどき、文字を追うよりも「ページをめくる速さ」を気にしていることに気づく。めくるスピードが速ければ、いかにも集中しているように見える。けれど実際には、一行も頭に入っていない。体裁とは、理解よりも動作に宿るのだ。
カフェで本を広げるときも同じだ。コーヒーと並べて置くだけで、読書風景は完成する。ページを開いていなくても、カップの横に本があるだけで「知的な午後」が演出される。読書の内容よりも「読書している自分の外観」の方が強く印象に残る。つまり読書は、内面より外面に投資するほうが効率的な活動なのかもしれない。
さらに、他人の視線を意識するほど、私は「どんな本を読んでいるか」という自己演出に縛られる。ビジネス書なら勤勉そうに、純文学なら感受性豊かに、詩集なら感性派に見えるだろう。だが結局、私が気にしているのは中身ではなく「外から見た自分」だ。本の中に没頭しているふりをしながら、実際は「没頭している私」を監督している。この二重構造こそ、読書の体裁の核心である。
体裁にこだわりすぎて、読書そのものが空洞化していく。しかしその空洞にこそ、現代的な読書の真実が潜んでいるのかもしれない。つまり「本を読む」のではなく「読書している自分を読む」こと。私はこの自己言及のループを、今日も電車の窓ガラスに映しながら繰り返している。
第三章 引用の魔術
本の一節をSNSに投稿し、いいねがついた瞬間、その本を読了したことにした。ページ数は200でも300でも関係ない。引用はショートカットだ。ただ、引用元を忘れると、もはや自分の名言になる。
引用の魅力は「わかった気」にさせてくれる即効性にある。ある本を読み進めていく中で、難解な理論や退屈な叙述に出会ったとしても、一行の名言めいたフレーズを切り取れば、それだけで「知の証拠品」として流通させることができる。つまり引用とは、知識のコンビニエンスストアなのだ。
しかもSNSに投稿するとなれば、言葉の力は加速する。いいねやリツイートの数が、そのまま私の読書深度を保証してくれる。まるで「読んだページ数」ではなく「獲得したリアクション数」で読書量を測っているかのようだ。すると私は、もはや本そのものではなく、反応の大きさを読むようになってしまう。
だが引用には危うさもある。出典を曖昧にしたまま広めれば、他人の思想が私の言葉にすり替わる。コピー&ペーストを繰り返すうちに、私は自分でも「どの本にあった言葉なのか」わからなくなってしまう。それでもなお、言葉は漂いながらも力を持ち続ける。もはや引用は、書物の所有から切り離され、読書を「引用経済」へと変えてしまったのだ。
私の読書日記も例外ではない。引用によって飾られたページは、いかにも博識な雰囲気を醸し出す。だがその実態は、本を読んだ私ではなく、引用を操った私の演出でしかない。引用の魔術は、私を読者から「即席の思想家」へと偽装する。こうして茶化すように引用を弄んでいるうちに、読書はますますショートカットの技芸へと変貌していくのだ。
第四章 ジレンマとしての茶化し
私は知っている。茶化さなければ誰も読まないし、茶化せば茶化すほどインプレッションも収益も上がる。冷静に考えれば「真面目に書く」ことよりも、「笑わせる」ことの方が人を巻き込みやすい。だが、その効率の良さに身を任せると、読書そのものが滑稽なパフォーマンスに矮小化してしまう。私はそのジレンマを抱えながらも、あえて茶化す。なぜなら、茶化すことによってしか、私の読書は他人に届かないからだ。
茶化すことは安全でもある。笑いに変えてしまえば、失敗も浅さも「ネタ」として回収できる。真剣に書いて失敗することは怖いが、茶化して失敗すれば「予定調和」になる。その保険を持ちながら文章を書くと、確かに心は楽になる。だが同時に、私は自分の弱さを笑いでごまかしているに過ぎないのではないかと疑う。茶化しは防御であり、同時に逃避でもあるのだ。
さらに、収益やインプレッションを意識するほど、私は「茶化しの強度」を競技のように高めてしまう。より強烈に、より即座に笑いを取る言葉が優先され、本来の読書体験は後景に退いていく。読書を届けるために茶化したはずが、いつの間にか「茶化すために読書する」状態に陥っている。ここに逆転の悲喜劇がある。
それでもなお、私は茶化しを選ぶ。なぜなら茶化さなければ届かない領域があるからだ。真面目な文章は堅牢だが閉じてしまう。茶化した文章は軽薄だが、風通しがよく、他者が入り込みやすい。ジレンマとは、結局「閉じる誠実さ」と「開く軽薄さ」のはざまで揺れることなのだ。私は今日もそのはざまで、本を開き、そして茶化す。誠実さを守るために、あえて軽薄さを選び続けているのである。
第五章 茶化すことで読む
読書を真面目に続けるのは難しい。だから私は、茶化して逃げ道をつくる。それでも本を開くのは、結局のところ「茶化したい」気持ちもまた、読書の一部だからだ。茶化すことは誠実さの逆ではなく、誠実さを遠回りに告白する方法かもしれない。
私は本を読むとき、すでに「どこを茶化すか」を探している。難解な概念に出会えば、「ここはギャグに変えられる」と考える。感動的な描写を見れば、「ここで泣いたと書くのはベタすぎるから、笑ってごまかそう」と思う。つまり、茶化すことが先に立ち、読書そのものが茶化しの素材へと変わっていく。
だが、そうやって読み方を歪めることで、逆説的に本との距離が近づく瞬間もある。茶化すためには、内容をよく観察しなければならない。真剣に受け止めるからこそ、ズラして笑いにできる。だから茶化しは、実は注意深い読解の裏返しなのだ。
また、茶化しは読書を「独占」から解放する力も持つ。本を真面目に読み込むと、それはどうしても個人的で閉じた経験になりやすい。だが茶化すと、その瞬間に他人と共有できる。笑いは他者を巻き込みやすいからだ。茶化しは、読書を「みんなの遊び場」に変える技術でもある。
もちろん、茶化し続けることに疲れる日もある。軽く流してばかりで、深い感動や衝撃を見逃しているのではないか、と不安になる。だがその不安すらも、茶化して書いてしまえば一つの読書記録になる。私は今日も茶化しながら読む。真剣と冗談を行き来しながら、本に書かれていない何かを探している。茶化すことでしか読めない読書が、確かにここにあるのだ。
あとがき 定点観測者としての読書梟
この「茶化したい読書日記」は、単なる自虐や冗談ではなく、世間の読書傾向を眺めるための定点観測でもあった。ベストセラーはなぜか似たような装丁で積まれ、SNSでは引用の断片だけがひとり歩きし、電子書籍の普及で「積読」という罪悪感すら薄れつつある。読書は個人の内面を深める営みであると同時に、世間の風景を映す鏡でもあるのだ。
私は「読書梟」という名前で、この風景を記録し続けていきたいと思う。茶化すことで注目を集め、笑いをきっかけに人を巻き込みながらも、その背後にある読書文化の変化を見逃さないようにしたい。読書界隈は静かに広がり、また静かに衰退していく面もある。だが茶化しの目を通せば、そこに新しい光や熱が見えてくるはずだ。
私は今後も、真剣さと冗談のあわいから、読書を観測し続けるだろう。茶化しは読書の終わりではなく、読書を更新する方法である。読書梟というブランドを旗印に、笑いと批評の両方で読書界隈を少しでも盛り上げていければ幸いだ。
コメントを送信