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読書日記と現実

本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。

著者:Dさん

書くことは、往復切符のような行為だ。ページのなかへ入っていくと同時に、現実の片隅に帰ってくる。私が「読書日記」をつけるのは、書くという往復切符を何度も使って、読みと生活の距離を測り続けるためである。だが最近はその距離が妙に揺れている。面白い小説を読んで心が熱くなる一方で、現実の世界では「人気」「稼ぐ」「note」といった言葉がしつこく顔を出す。読むことと書くこと、それが「稼げる」かどうかによって評価される時代に、読書日記はどう振る舞えばよいのか。私はその曖昧な境界を、いつものように考えて、冗談めかして、時に厳しく切る。

まず正直に言えば、読書と収益の関係は単純ではない。小説の面白さと、ネットで「稼ぐ」ための文章の書き方はしばしば相反する。物語の深みはしばしば説明を嫌い、沈黙や余白を必要とする。だがnoteの世界では、瞬間的に「人気」を得るための仕掛けや、検索キーワードを意識したタイトル、読みやすさを優先する断片的な語りが歓迎される。女性作家が自身の体験を書くとバズる、という単純な観察もある。これをどう読めばいいか。私はまず、二つの時間軸があると考える。小説が育つのは長い時間であり、noteのようなプラットフォームで評価されるのは短い時間である。読書日記はこの両方に居住可能かどうかを自問する必要がある。

「稼げない」ことを恐れる人は多い。私もかつてはそうだった。書くことで収入を得たい。だが収入のために書いた文章は、しばしば書き手自身の面白さを失う。面白い小説は、まず書き手が自分で面白いと感じなければ生まれない。読者の数を増やす技術的な工夫—たとえばSEOを意識した見出しや、クリックを誘うサムネイル風の導入—は確かに「稼ぐ」助けになるが、それが目的化すると、文章の芯が薄くなってしまう。私は読書日記を書くとき、まず「面白いか」を自分に問い続ける。面白いとは必ずしも笑えることではない。驚き、納得、違和感、そして時に不快さ。そうした感情の動きがあって初めて、言葉は肌に合う。

それでも現実は残酷で、生活は金を要求する。女性作家や読者の多くが、noteを使って短期間で支持を集め、収益化する術を見つけているのを見ると、羨望や疑念が湧く。「どうして私は稼げないのか」と自分を責める声も聞こえる。ここで重要なのは、「稼ぐ」ための戦略と「書く」ための倫理を分けて考えることだ。戦略は学べる。noteのアルゴリズムや読者心理、文章の書き方のコツは体系化できる。たとえば導入のテンプレート、見出しの付け方、短文のリズム、エモーショナルな締めの作り方。これらは習得すれば役に立つ。しかし、戦略を学んだからといって、あなたの小説や読書日記が面白くなるわけではない。面白さは訓練だけでは手に入らない領域がある。

著作権の話も避けて通れない。引用や要約のルール、小説の断章を転載するときの線引き、さらには「アイデア」の盗用とインスピレーションの境界。noteでの短い抜粋や感想文は有効だが、著作権を無視すると信頼を失う。読者との信頼は、収益よりずっと長期的に効いてくる資産だ。私は読書日記を書くとき、必ず出典を明記する。可能なら引用は短くし、自分の反応を中心に据える。これが著作権に対する最低限の礼儀であり、同時に読者との対話の基盤になる。著作権を守るということは、他者の言葉を尊重することでもあり、自分の言葉を磨くための練習でもある。

では、どうやって両立させるのか。私の答えは「二層化」である。日常的な「稼ぐための言説」はnoteやSNSで短く実験的に行い、深い読書日記や小説的な仕事は別冊に仕立てる。noteで得た読者の反応はフィードバックとして使い、そこで得た資金はより長い作品に投資する。実際、私の知人にnoteで人気を築き、得た収益で短編集を自費出版した女性作家がいる。彼女は「人気」を通じて初めて自分の小説にまとまった時間を与えられたと言った。しかしこれは万能薬ではない。二層化は精神的にも作業的にも負担が大きい。だからこそ、読むこと自体が持つ回復力を忘れてはならない。読書は書くための燃料だが、それ以上に自分の世界観を保つための呼吸でもある。

面白い文章の書き方について、幾つかの実践的な助言を書いておく。だがこれは「レシピ」ではなく「訓練メニュー」だ。第一に、短くてもいいから毎日書くこと。第二に、他人から「稼げない」と言われても自分の声を捨てないこと。第三に、他者の小説を読んで、その書き方を模倣することを恐れないこと(模倣は理解への近道だ)。第四に、noteでは冒頭三行で勝負する。ここでの勝負とは、読者に続きを読みたいと思わせることだ。第五に、著作権への配慮を怠らないこと。引用は精確に、出典は丁寧に。これらは「稼ぐ」ためにも「面白い」を守るためにも必要だ。

しかし、訓練や工夫を越えて重要なのは「欲望の整理」だ。あなたは何のために書くのか。収入ならば、戦略を徹底的に学ぶべきだ。名声や人気が目的ならば、読者心理の研究に時間をかける価値がある。だがもし「面白いものを世に出したい」という欲望が主ならば、あなたは時間と孤独を引き受ける必要がある。多くの「稼げない」号泣は、実は欲望が混線していることに由来する。稼ぎたいのか、面白さを追いたいのか、それとも両方か。優先順位が明確になれば、書き方も変わる。

ここで一つ、私の小さな告白をしておこう。読書日記を書き始めたころ、私はnoteでバズることを夢見ていた。女性作家の成功例をまねし、センセーショナルな導入を練り、プロフィール写真を何度も撮り直した。だがある晩、面白い小説に出会い、その余韻を書き残したとき、アクセス数は伸びなかった。しかし、そのときの文章を書いている間、私はこれまで感じたことのない昂揚を覚えた。稼げないが、面白かった。結局、私はその「面白さ」を選んだ。だが私は同時に、noteで小さな連載も続け、生活費の一部を賄っている。矛盾は矛盾のまま、私の現実だ。

最後に、読書日記と現実の距離について一つのメタファーを残す。読書日記は「傘」であり得る。雨(現実)は容赦なく降るが、傘を持っていれば濡れ方を選べる。傘を開くのが面倒な日もあるし、傘を差しても濡れる箇所は必ずある。人気や稼ぐこと、noteのアルゴリズム、著作権の制約——これらは雨の性質に似ている。しかし傘自体はあなたが選ぶものだ。丈夫で重い傘を買えば長持ちするが持ち運びは面倒だ。軽い折りたたみ傘は便利だが風に弱い。面白い小説を書く時間は、しばしば重い傘を差すことに似ている。一方で、noteで短く収益を上げることは、軽い折りたたみ傘の要領だ。どちらも必要だし、どちらか一方に固執すると不便が生じる。

読書日記は現実のなかで生きる術だ。女性であろうと男性であろうと、売れっ子であろうと稼げない者であろうと、私たちは言葉で世界を読み替え、世界に返す。その循環のどこに「人気」が生まれるかは予測できないが、誠実に読んで、誠実に書くことが、最終的には最大の資本になると私は信じている。著作権を尊重し、面白さを追い、必要ならnoteで稼ぐ。矛盾は取り扱い注意だが、作品はその矛盾のなかで成熟する。

結びに、あなたへの問いかけを一つ。今日、あなたが読んだ本のどの一文が、現実のどの部分に光を投げかけただろうか。その光を小さなメモに留めておくこと——それが読書日記の基本であり、やがてはあなた自身の小説の一節へと育つかもしれない。稼げない日もあるだろう。だが面白い日が一つあれば、それは十分に価値のある日だ。

次の記事でもまた、読書ブログならではの読後の余韻を記していければ幸いです。

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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