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Reading Flexibility批判:文学的批評の視座から

読書ブログという形をとりながら、私自身の思索と読書体験を交差させてみたいと思います。

本稿は、教育学由来の“reading flexibility(読書の柔軟性)”を、文学理論・現代批評・読書科学(cognitive reading research)の三角測量で再検討し、速度偏重の実践が言語の多層性と時間性をどう切断するかを批判的に論じる。


0. 要旨(アブストラクト)

  • 命題:reading flexibility は教育学的には有用だが、文学的読解の位相では、速度を唯一の指標に読解行為を回収する規律装置となりやすい。
  • 方法:バルト/ド・マン/デリダ/ブランショらの理論に、Wolf(2018)、Baron(2021)、Delgado et al.(2018)、Clinton(2019)など現代の読書研究を接続。
  • 結論:文学的読解は「遅延(différance)」「不可逆性」「未完性」を内在的条件に持つ。速度の“柔軟”な調整が有効な領域(概略把握・既知領域)を限定し、遅さの倫理を中心に据え直す必要がある。

1. 「柔軟性」というレトリックの空虚

「reading flexibility」という語は、自由で多様な読解を可能にするかのように響く。しかしその“自由”は多くの場合、速度の調整に還元される。バルト『テクストの快楽』(1973)が示したのは、参照と声が交差する**多義的な場(テクスト)**であり、そこでの快楽は数値化不能な遅延と揺らぎに宿る。柔軟性というレトリックが快楽の位相を「速く/遅く」の二分に押し戻すとき、多義性は単軸化される。

(意訳)テクストは、決定よりも“ほどけ”において豊かである。──ロラン・バルト


2. 読解の時間性の剥奪:différance と遅読

ド・マン『盲目と洞察』(1971)は、読む行為を生成の出来事として捉える。デリダの différance(差延)は、意味が“今ここ”に閉じず、遅れて到来し続ける運動を指す。ジョイス『ユリシーズ』、ピンチョン『重力の虹』、ウルフ『波』のようなテクストは、再読と遅読なしに輪郭を結ばない。速度を上げて「理解」を即時化する実践は、この遅延の空間を切断し、読解を処理へと矮小化する。

(意訳)テクストは読むたびに生まれ、読むたびに遅れる。──ポール・ド・マン


3. 市場化された読書:規律/KPI/パフォーマンス

フーコー『監獄の誕生』(1975)の規律権力の観点から見ると、reading flexibility は読書をKPI化(速度・冊数・滞在時間)し、可視化可能な成果へ従属させる装置となる。ブルーム『西洋正典』(1994)の deep reading はむしろ、その可視化の外部に開く不可逆的な沈潜を擁護していた。近年のハルトムート・ローザ(2013)による社会的加速批判、ビョンチョル・ハン『疲労社会』(2010)によるパフォーマンス主体批判とも整合的である。


4. 主体と他者性:支配の幻想/未完の倫理

「柔軟に読む」という言い回しは、読者がテクストを支配できるという錯覚を与える。しかしブランショ『文学空間』(1955)が描くのは、読者がテクストの他者性に曝され続ける経験であり、そこでの倫理は「終わらなさ」に耐えることにある。デリダ『グラマトロジーについて』(1967)に拠れば、読書は常に未完であり、速度はこの未完性を完了の演出へと移し替える危険を孕む。

(意訳)文学は、われわれを“いつまでも終わらない”場所に留める。──モーリス・ブランショ


II. 読書科学(現代研究)の知見:速度と理解のトレードオフ

5. デジタル読書と深い理解

  • Maryanne Wolf, Reader, Come Home(2018):スクリーン中心の読書環境は、deep reading(深い読書)に必要な回路の弱体化を招きやすい。いわゆる「二重リテラシー脳(biliterate brain)」の訓練が必要だとする。
  • Naomi S. Baron, How We Read Now(2021):大学生を中心とする調査で、印刷の方が複雑な理解・記憶に優位という自己報告と成績差を示す事例が多数。
  • Delgado, Vargas, Ackerman, Salmerón(2018, Educational Research Review:メタ分析(17研究)で、デジタル読解は紙より理解成績が劣後する傾向を報告(特に制限時間条件で差が拡大)。
  • Clinton(2019, Educational Research Review:メタ分析(33効果量)でも、紙媒体優位(効果量 g ≈ .25 前後)。
  • Singer & Alexander(2017):学生はデジタルの方が速い/理解していると思い込むが、実測では紙が優位というギャップを示す。
  • Mangen, Walgermo, Brønnick(2013):物理的紙面は空間的手掛かりにより構造把握を助け、長文理解で優位。

示唆:速度上昇(特にスクリーン×時間制約)は、再認は維持しても、推論・統合・転移を毀損しやすい。これは文学的読解が重視する「多層的理解」と齟齬をきたす。

6. 速読・スキミングの限界

  • Rayner(1998 以降の視線研究レビュー):**語の認知・再帰的回帰(regressions)**は理解の核。回帰を抑制する高速スキミングは、合成理解を毀損。
  • Just & Carpenter(1980s)容量制約モデルにより、処理速度と統合的理解のトレードオフを理論化。

総括:reading flexibility が言う「速く読んでも理解が落ちない」場面は、平易テクスト/目的が概略把握/既知スキーマが厚いといった条件に限定される。


III. 反証可能性と適用範囲の限定

7. 速度が有効な領域(限定的肯定)

  • 既知領域の概略更新(レビュー論文の目次走査、章冒頭・結論の比較)
  • 情報探索段階(“何がどこにあるか”の地図化)
  • 同型反復の多い実用文(定型レポート、仕様の変更箇所確認)

8. 速度が有害になりやすい領域

  • 多声的テクスト(ジョイス、ピンチョン、フォークナー、柄谷行人の理論文など)
  • 高抽象度・反直観的論証(クワイン、デリダ、野家啓一)
  • 詩・修辞的密度が高い散文(谷川俊太郎、小川洋子)

提案:柔軟性の有効性を語るなら、適用外部を明示すること。これを欠くと柔軟性は万能のスローガンへ退化する。


IV. 方法:遅さの倫理×二重リテラシー(実践プロトコル)

9. Biliterate Protocol(試案)

  1. 探索(速):目次→章末→図表→索引で地図化(10–20分)
  2. 沈潜(遅):紙に切替/付箋・書き込み/声読(30–90分)
  3. 統合(遅):章レベル要約→反駁の作成→引用抜粋
  4. 拡張(速×AI):AIで異説マッピング/用語の一次典拠照会
  5. 再沈潜(遅):論点の逆照射再読(必要なら数日寝かせる)

速度の“使い分け”は、遅さの場を中心に設計するときにのみ、文学的読解と両立する。


V. 結語:速度ではなく、遅延の中にある自由

reading flexibility は、教育/情報探索の局面では役に立つ。しかし文学的読解においては、遅延・不可逆性・未完性が本質であり、速度の調整はそのに置かれるべきである。読むとは、速度を競うことではなく、意味が遅れて到来する空白に耐える自由を引き受けることだ。


参考文献(選)

  • Roland Barthes, Le plaisir du texte, 1973.
  • Paul de Man, Blindness and Insight, 1971.
  • Jacques Derrida, De la grammatologie, 1967.
  • Maurice Blanchot, L’espace littéraire, 1955.
  • Michel Foucault, Surveiller et punir, 1975.
  • Harold Bloom, The Western Canon, 1994.
  • Maryanne Wolf, Reader, Come Home, 2018.
  • Naomi S. Baron, How We Read Now, 2021.
  • Delgado, P. et al., “Don’t throw away your printed books…”, Educational Research Review, 2018.
  • Clinton, V., “Reading from paper compared to screens…”, Educational Research Review, 2019.
  • Singer, L. M., & Alexander, P. A., 2017.
  • Mangen, A., Walgermo, B. R., & Brønnick, K., 2013.
  • Keith Rayner, “Eye movements in reading”, 1998 以降レビュー。
  • Just, M. A., & Carpenter, P. A., 1980s.
  • Hartmut Rosa, Beschleunigung, 2013.
  • Byung-Chul Han, Müdigkeitsgesellschaft, 2010.

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