何故誤謬はさけられないのか
本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。
1) 論理学から見える「誤謬が避けられない」構造
1-1. 妥当性判定の不可能性(Church–Turing)
「与えられた推論が論理的に正しいか?」を機械的に常に判定する万能手続きは存在しません。
- 一階述語論理の妥当性判定(Entscheidungsproblem)は不可解決(undecidable)。
- したがって、一般の場合に「これは誤謬か否か」を自動・確定的に判定する方法はない。
→ 人間の議論が完全自動チェックできない以上、誤謬は検出し漏らしうる。
1-2. 不完全性(Gödel)
十分に表現力の高い公理系(例:Peano 算術 PA)が無矛盾で再帰的に公理化されているなら、
- 真だがその体系内では証明できない命題が必ず存在(第1不完全性定理)。
- しかも、その体系は自分自身の無矛盾性を証明できない(第2不完全性定理)。
→ 「真理=証明可能」とは限らず、正しさが確定できない灰色域が必然的に生まれる。
この灰色域での発言は、誤謬と正解の境界を恒常的に揺らす。
1-3. 真理の不可定義性(Tarski)
算術の内部で「算術命題の真理」を定義することはできません(真理述語の不可定義性)。
- 自然言語は容易に自己言及を許す(「この文は偽だ」)。
- 形式体系は対象言語とメタ言語の分離でこれを回避するが、日常議論では混線しがち。
→ 自己言及/階層混同による意味の破綻は構造的に避けがたい。
1-4. 計算量の壁(複雑性)
たとえ可判定でも、人間が実際に扱えるとは限らない。
- 命題論理の妥当性は coNP 完全、量化命題論理は PSPACE 完全。
- 現実の大規模議論・契約・仕様は、これらに匹敵する複雑性を持ちやすい。
→ 計算資源の制約により、完全な検証は非現実的。誤謬は実務的に避けきれない。
2) 数論に固有の「正しさが確定しない」地形
2-1. ヒルベルト第10問題(Matiyasevich 定理)
**任意の両辺多項式方程式に整数解があるか?**を判定する一般アルゴリズムは存在しない。
- ディオファントス方程式の可解性は不可解決。
→ 「自然数についてのごく素朴な問い」にさえ、原理的な判定不能領域が横たわる。
2-2. “有限組合せ”の独立性(Paris–Harrington, Goodstein)
- Paris–Harrington の原理:有限組合せ論の命題なのに PA では証明不能(ただし真)。
- Goodstein の定理:自然数列に関する断言だが PA では証明不能(ただし真)。
→ 「小学生でも述べられるタイプの数の主張」でさえ、既存公理からは決着不能が起こる。
この種の独立結果は無数に存在する(Π¹₀ の真だが PA 独立な命題が無限にある)。
2-3. アルゴリズム的ランダム性(Chaitin)
ある定数 NNN が存在して、Kolmogorov 複雑度が NNN を超える個別の“乱数的”真理は、その体系内では証明不能。
→ 数の世界には、「証明を超える偶然性」が無限に沈殿している。
3) 自然言語・実務・科学に落とすと何が起きるか
- 判定不能:誤謬か明快な正論か、一般手続きで常に見抜けない状況が不可避。
- 不完全性:事実上“正しい”のに当該枠組みでは裏づけ不能、あるいはその逆という局面が出る。
- メタ言語混濁:専門用語・モデル・前提が混線し、定義のズレが誤謬に見える/見えないを揺らす。
- 資源制約:完全証明や完全反駁はコスト的に不可能、ヒューリスティック(近道)に依存 → 体系的な取り違え(擬似相関、代表性ヒューリスティック等)を招く。
- 独立性と帰納:数論でさえ独立命題が溢れる。科学・社会ではなおさら確率的・漸進的合意に頼るほかない。
4) 「誤謬を減らす」ための実務的含意(論理学・数論の教訓から)
- 言語階層を分ける:対象主張とメタ評価(定義・測定・手続き)を明示的に区別(Tarski への配慮)。
- 前提を外部化する:使用公理・モデル・データ生成過程を冒頭で宣言(Gödel の影響域を明らかに)。
- 計算資源に見合う検証:完全性ではなく漸近的保証・反例探索の強化・定理証明支援系の導入。
- 独立性に自覚的:結論ではなく条件付き主張として提示(「ZFC+αの下で成立」等)。
- 二重記述:自然言語の主張を形式化(論理式)と直観的説明の二層で記述し、相互検査。
- 仕様を弱める:不可判定領域を避けるため、目的に必要十分な弱い理論/制約に落とす(例:Presburger 算術での整数線形領域に限定)。
5) まとめ:誤謬は欠陥ではなく宿命、ゆえに設計対象
- 不可判定(Church–Turing)、不完全性(Gödel)、不可定義(Tarski)、計算量の壁、数論的独立性(Matiyasevich・Paris–Harrington・Goodstein・Chaitin)。
これらは「人が下手だから」ではなく、記号・数・推論が持つ構造的限界です。
したがって、「誤謬をゼロにする」という設計目標は捨て、
- 誤謬の発生確率を下げる、
- 発生時の影響を局所化する、
- 迅速に検出・訂正できる運用を敷く、
というエンジニアリングに切り替えることが、論理学・数論の知見から導かれる最適解です。
誤謬は、真理への道を曇らせる霧であると同時に、どこに橋を架けるべきかを教えるマーカーでもあります。限界を自覚した設計と運用だけが、より良い対話と知識更新を支えます。
読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。
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