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偶発的読書の跳躍 -方法論をこえて-

本を読むこと、そして書き残すこと――それを読書ブログとして続けているのが「読書梟」です。

序章

通勤途中、何の気なしに立ち寄った古本屋の薄暗い棚。その奥で背表紙だけが静かに光を放つ一冊があった。目的もなく指先が伸び、迷いなく引き抜く。そうした偶然の瞬間が、私にとっての読書の始まりだ。計画性も、効率も、方法論もそこにはない。ただ、偶然の呼吸に導かれてページを開く。

ある朝、地下鉄の座席に腰を下ろし、バッグの奥から古びた文庫を取り出した。数年前に購入したまま一度も開かなかった『カラマーゾフの兄弟』。そのときの私は仕事の段取りで頭がいっぱいだったが、一行目を読んだ瞬間、車内の喧騒が遠ざかり、言葉の流れだけが鮮やかに立ち上がった。偶然に掴まれた瞬間、世界が一度止まる。

“Un coup de dés jamais n’abolira le hasard.”
—— ステファヌ・マラルメ『骰子一擲は偶然を廃さない』

偶然は、読書における最初の跳躍であり、同時に最も純粋な行為である。方法を駆使すれば、読みたい本を効率的に探し、計画的に読み進めることができるだろう。だが、その計画には予測可能性がまとわりつく。ページをめくる速度、内容の理解、メモの取り方──その全てが合理性の網に絡め取られてしまう。しかし、偶然はその網をいとも簡単に破る。

思えば、私の読書日記はすべてこの偶発性の産物だ。仕事帰り、疲れた足でふらりと立ち寄ったカフェで手に取った小さな哲学書。誰かが読み捨てたように置き去りにされた詩集。そうした出会いは、方法論では到達できない場所へ、私を連れ出す。偶然とは、言葉と意志を結びつけるための最初のきっかけなのだ。

偶然の力を信じることは、時に不安を伴う。計画という安全網を手放し、何の保証もない言葉の海へ身を投げ出すからだ。しかし、その不安の中でしか、世界は立体的に立ち上がらない。偶然の跳躍は、読書を単なる知識の摂取から、行為そのものへと変えていく。

意志が偶然に寄り添うとき、読書は息をし始める。それは、まだ形を持たない問いが、言葉に出会い、生成へと踏み出す瞬間でもある。序章として記すべきなのは、この単純な事実だ。読書は、偶然の呼び声に従うときにだけ、本当に血肉となるのだ。


第一章:方法を超える読書

方法論を学ぶことは、読書において決して無駄ではない。効率的に読み進める技術や、要約を抽出するスキル、関連文献をネットワーク化する方法──どれもが一定の成果をもたらす。だが、私の身体はその技術を裏切る。通勤電車の座席に沈みながら、私は予定していたビジネス書ではなく、鞄の底に押し込んだままの文庫を開く。黄ばんだページの匂いが鼻腔をくすぐり、思考のスイッチが音を立てて切り替わる。

“方法は学べる。しかし意志は燃やすしかない。”
——(読書梟オリジナル)
“I would like my books to be a kind of tool-box which others can rummage through to find a tool which they can use however they wish in their own area.”
—— Michel Foucault, Power/Knowledge

フーコーの言う「道具箱」という比喩は、読書を「利用する」ものではなく「働かせる」ものとして再定義する。方法とは道具であり、主人ではない。私はその道具を携えながらも、意志の炎で方向を変える。計画通りに進む読書の安心感と、偶然の力で脱線する読書の不安。その間で揺れる緊張感こそが、読書を生きた行為へと変えるのだ。

ある日、週末の静かな午後、机の上で積んだ専門書を横目に、無造作に掴んだ詩集を開いたことがある。その詩は予想外の角度から私の日常を照らし、読書という行為が単なる学習から、感情や記憶を呼び覚ます儀式へと変わっていった。方法では到達できない領域が、偶然の跳躍によって目の前に開ける瞬間だった。

方法を超えるとは、方法を否定することではない。それを従わせ、柔軟に使いこなすことだ。ページをめくる指先が、意志の震えに導かれるとき、読書は計画ではなく出来事になる。効率化の論理を超えたところに、言葉が血肉化する場所がある。


第二章:誤配としての意志

「この本を読むべきだ」という予測は、たいていの場合あっさりと裏切られる。机の上には計画的に積まれた新刊が整然と並んでいる。それでも、手はなぜか別の本に伸びてしまう。その瞬間、方法論の地図から逸脱する意志が静かに立ち上がる。

“The text is a tissue of quotations drawn from the innumerable centres of culture.”
—— Roland Barthes, “The Death of the Author”, Image–Music–Text
“本は読むべき順序で読まれるのではない。意志が指を伸ばす順序でしか読まれない。”
—— (読書梟オリジナル)
“Der Mensch ist Etwas, das überwunden werden soll.”(人間とは、超克されるべきものだ)
—— Friedrich Nietzsche, Also sprach Zarathustra

朝の通勤電車、理論書を読むつもりで手にしたカバンの中には、偶然紛れ込んでいた薄い文庫本があった。軽い気持ちでページを開いたその小説が、その日の思考をすべて塗り替えた。こうした“誤配”は、失敗ではなく新しい創造の起点になる。計画通りに進めた読書にはない、自由な跳躍と発見がそこにある。

読書日記をつけるようになって気づいたのは、この誤配こそが私の思索を深めてきたという事実だ。予定通り進まなかったノートのページには、予期せぬ言葉が並んでいる。その行間に、意志が不意に放った火花が残っている。

方法論的な順序は、合理性を与える。しかし、その合理性は往々にして安全で退屈だ。誤配の瞬間には、思考の地図が書き換えられ、言葉が本来の鋭さを取り戻す。誤配は、秩序の外に新しい秩序を生む。だから私は、予定通りに進めない自分を責めることをやめ、むしろその“誤配の意志”に従うことを覚えた。


第三章:生成としての読書

駅のベンチでページをめくる。朝のざわめきの中、一行の文章が心臓に触れたように響き、時間の流れが変わる瞬間がある。降りるはずの駅を通り過ぎ、次の駅で慌てて電車を降りる。その間、私は本の中に完全に没入している。読書とは、計画された行為ではなく、生成として訪れる出来事なのだ。

“行為とは、始まりである。”
—— Hannah Arendt, The Human Condition
“You must change your life.”(君は生を変えねばならない)
—— R. M. Rilke, Archaic Torso of Apollo

生成は予測できない。前日に机に積んだ本ではなく、ふと手にした一冊がその日の思考を決定づけることがある。何気なくページを開いたバタイユの一節、「死は生の兄弟である」という短い文が、私の心を鋭く射抜いたことがある。その後の一日は、世界が異なる解像度で見えた。

読書日記をつける理由は、この生成を記録するためだ。意図しない瞬間に立ち上がる震えや、言葉が世界を裏返すような衝撃。その断片をノートに残すことで、生成の痕跡を自分の中に刻みつける。文章にすることで、偶然と意志が交差したその時間が二度と失われない。

そして、書き留めた記録を後から読み返すと、そのときの感情が蘇る。本は再読によって異なる顔を見せるが、その変化は、私自身の生成の記録でもある。読書が生成である限り、それは繰り返し、そして絶えず更新される体験なのだ。


第四章:偶然を抱く倫理

偶然は、読書において避けられない。それどころか、偶然こそが読書を豊かにし、自由にする。私がこの確信を得たのは、ある晩のことだ。雨上がりの路地の古書店で、ずっと探していた随筆集を見つけた。表紙は擦れて、角は丸く、ページには鉛筆の細い下線が残っていた。値札を見て、私は逡巡する。財布の残額、家にすでに積まれた未読の山、そして翌日の予定。私は本を棚に戻した。店を出ると、濡れたアスファルトが街灯の光を跳ね返し、わずかに胸が痛んだ。買わないという選択が、こんなにも鮮烈な余韻を残すとは思わなかった。

“There is no need to fear or hope, but only to look for new weapons.”
—— Gilles Deleuze, “Postscript on the Societies of Control”
“倫理とは、予定調和を疑い、偶然を抱擁する力である。”
—— (読書梟オリジナル)
“Convivial tools are those which give each person who uses them the greatest opportunity to enrich the environment with the fruits of his or her vision.”
—— Ivan Illich, Tools for Conviviality

倫理は、常に「正しい手順」に従うことではない。ときにそれは、選択を保留し、状況と時間に耳を澄ます態度として現れる。私はその夜、買わないという行為が私の内部にどのような余白を作るのかを確かめた。余白は、翌朝の読書に不思議な透明感を与えた。棚に戻した随筆集の代わりに、机の端で埃をかぶっていた薄い詩集を開く。言葉は驚くほど澄み、前夜の逡巡が行間の水脈を照らした。偶然の回路が、読書の内部に新しい循環を生み出す。

「寄り道」は、効率の論理から見れば無駄に見える。だが、寄り道こそが私の読む身体を鍛え直す。いつもと違う道を歩くとき、空気の匂いが変わり、信号の待ち時間が別の思考を連れてくる。読書もまた同じだ。計画から逸れたページに触れるとき、私の視界は広がり、言葉の輪郭が増す。偶然を抱くことは、世界の細部に注意を払う訓練であり、同時に自分の欲望の速度を調整するレッスンでもある。

イリイチの言う“コンヴィヴィアル(自律共生的)な道具”という概念を借りれば、読書という行為は、私自身の環境を豊かに作り替えるための道具であり、社会に開かれた身振りでもある。本は所有物にとどまらず、関係の結び直しを促す媒介だ。買わないという選択もまた、関係の結び直しである。通りすがりの一冊との距離を保ち、その代わりに身近な一冊を丁寧に読む。すると、手元の本が新しい声で語り出す。偶然は排除すべきノイズではなく、読書の共同体を更新するための“道具”なのだ。

数週間後、私は別の街の市で同じ随筆集に出会った。驚くほど手頃な値で、しかも版も状態もあの夜の本より良い。偶然の回路は、遅れてやって来る。私はためらわずにそれを手に取り、帰路の電車で読み始めた。最初の章で、私は思わず本を閉じた。あの夜の逡巡が、今ようやく肯定されたのだと感じたからだ。買わなかった時間が、読む私を準備させた。偶然を抱く倫理とは、機会を逃さない俊敏さではなく、機会が成熟するまで待つ忍耐のことである。

寄り道、保留、待機──これらは怠けではない。読書の倫理は、効率と速度への抵抗として立ち上がる。偶然がもたらす「遅さ」は、理解の深さに変換され、言葉は身体の奥へ沈む。私はいま、読み終えたページをすぐ閉じない。余白に目を留め、指先で紙のざらつきを確かめ、窓の外を一呼吸分だけ眺める。偶然を抱く倫理は、こうした微細な身振りの集積として、読書を静かに作り替えていく。


終章:方法の僕としての方法論

読書は方法論の奴隷ではない。効率的に読むための技術や、情報を整理するスキルは確かに有効だ。しかし、それらが読書の中心を占めるとき、言葉に触れたときの胸の震えは、静かに消えていく。方法が主人になり、意志が従属してしまうからだ。

“Effort of attention is thus the essential phenomenon of will.”
—— William James, The Principles of Psychology
“Initium ergo ut esset, creatus est homo.”(始まりがあるために、人間は創造された)
—— Augustine, 引用: Hannah Arendt, The Human Condition

私が日々記す読書日記は、この危うさを何度も告げてくれる。計画どおりに本を読み進め、要点をきれいにまとめたノートを作ることはできる。だが、そのノートには温度がない。ページを閉じたときの余韻も、胸に刻まれた熱も、記号の外にこぼれ落ちている。だからこそ、方法に従うのではなく、方法を従わせるという態度が必要になる。

意志の声は、静かで、しかし確かな響きを持っている。偶然の跳躍を抱きしめ、その声に従ってページを開くとき、読書は単なる情報の摂取ではなく、血肉を伴う生の行為になる。計画や効率の網目をすり抜けたその瞬間、言葉は生きたものとしてこちらに語りかけてくる。方法は意志の僕であり、決して主人ではない──この確信だけが、私を今日もページへと向かわせるのだ。

読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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