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読書メーターのパラドクス

この読書ブログ「読書梟」では、日々の読書を通じて考えたことを記録しています。


1. 導入 ― 測れるものと測れないもの

読書メーターは便利だ。
読んだ本を登録し、冊数をカウントし、感想を残す。数字が積み重なっていく感覚は、小さな達成感を与えてくれる。
だが――ここに小さなパラドクスがある。数字で可視化した瞬間、読書の本質がどこか取りこぼされてしまうのだ。


2. 可視化と空白

読書メーターは、読書を「見える化」する。
だが、数値化の便利さの裏で、測定不能なものが取りこぼされる。

  • 記憶に残らない本
    一瞬で消えていく文章たち。
  • 記録できない余韻
    言葉にならない、あの震え。
  • 共有しきれない沈黙
    読んだ本人にしか響かない、あの瞬間。

読書は記録できるが、読書体験は記録できない。

この不一致が、読書メーターの核心にある。


3. 数字と倫理の非対称性

数字は平等だ。
10冊読めば「10冊」と記録され、100冊読めば「100冊」と表示される。
だが、倫理は平等ではない。
ある一冊は、数百冊分の意味を持つことがある。

ここに非対称性が生まれる。

  • 「薄い10冊」と「濃い1冊」を、数字は同じ「10」と「1」に還元する
  • けれど、体験としての密度は測定不能のまま残る

この矛盾を無視したとき、読書は「数字ゲーム」に堕していく。


4. 読書梟的ユーモア

読書メーターを眺めながら、ふと思うことがある。
「この速度で記録している人、本当にページをめくれているのだろうか」と。

もちろん、記録する自由は誰にでもある。
けれど、数字が重なれば重なるほど、「読書とは何か」という問いがむくむくと立ち上がる。

  • 読んだ本のタイトルをただ並べること
  • 読書をスコア化すること
  • 他者と数字を競うこと

そのすべてが、読書の本質をズラし続けている。
だが、そのズレ自体がまた、愛おしい。


5. 結論 ― 測定できない豊かさ

読書メーターのパラドクスは、読書の本質を浮き彫りにする。
測定できることに安堵しながら、測定できない豊かさに惹かれる。
その二重性を抱えたまま、本を開くしかない。

記録できるものだけが、価値を持つわけではない。
記録できない読書こそが、私たちを変える。

だから今日も私は、本を開く。
数字に還元されない“読み”を胸に、静かにページをめくりながら。


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読書ブログを通じて浮かび上がる小さな思索の断片を、これからも綴っていきたいと思います。

平成生まれです。障がい者福祉関係で仕事をしながら読書を毎日しています。コメントやお問い合わせなど、お気軽にどうぞ。

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