新・読書日記565(読書日記1905)
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日記
残業が終わったら駅まで物事を考えた。まとまらなかったので本屋に行った。
形式と誤配について日々考えている。抽象的過ぎるので
形式と誤配について日々考えている。抽象的過ぎるので、何を言っているか知りたい方は以下を参照してもらいたい。
小説ver.
形式的なものに怒りを隠しきれない。自分はそうなってしまった。
形式的な謝罪会見を想起してもらえれば少しは私と問題意識を共有できるかもしれない。
そこには「とりあえずやっとけ、安パイだから」という打算が隠れている。損得勘定が隠れている。
内発性に欠ける。内側からわきあがることのない、機械的な人間観。自分は嫌いである。
だから岡本太郎をはじめとして、様々な情熱的な作品に惹かれるのである。
・・・
昨日か一昨日、文芸批評の存在意義をAIに問うてみた。
そこから浮かび上がったのは「主観vs客観」の構図。
無論、文芸は前者、後者は論文になる。文芸は主観的観点から学術的な物言いにあれこれ突っ込む。
ポモ批判がその例。
主観で客観を斬るというのは、ハサミで石を切ろうとするようなものじゃないか。自分はそう思った。
だからAIと一緒に言語化した。だからこの構図がみえた。
ただ、論文は基本的に主観を排除する。でなければ思想になってしまう。
じゃあ、そこには感情を削り取られた、人間の機械的なものしか残らないのではないかと自分は思った。理系の分野ではなく、人文で。
そもそも主観でかたちづくられた人文の英知を、客観で切ろうとするのは本末転倒の気がしなくもない。
だから文芸評論家はそこを突く。それは分かる。
ただ、そうなると、文芸評論は何の目的をもっているのか、と自分は疑問に思った。
何かの奪い合いではないか?論争に限って話せば、結局のところ、誰が一番正しい価値観を持っているのか、そういう問題になる。
バカバカしいとしか思えない。
自分はそこには巻き込まれたくないと、あとあと気づかされた。そんな木曜日。
つづく
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