イケダハヤト『なぜ僕は「炎上」を恐れないのか 年500万円稼ぐプロブロガーの仕事術』読了+新・読書日記583(読書日記1923)
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日記
朝から不穏な気配が漂っていたのかもしれない。いや、正確には「自分はただ問いを立てただけ」なのだが、その問いがどうやら火薬庫の隅に火花を落としたようだ。最初の反応はまだ軽かった。これは指摘ではなく感想です、と言い訳するように切り出されたコメント。その時点で私は直感した。これは論点のやり取りではなく、ラベル貼り合戦に引きずり込まれかねないと。だから即座に思考を戦闘モードに切り替えた。「感想だから免罪符になるわけではない。発言が他者に届いた以上、中身の妥当性が問われる」。この一点突破で押し返した。
そこからは矢継ぎ早に反撃が飛んできた。難しいことを言わずに好きな本を語ればいいじゃないか、という素朴さの仮面をかぶった退却。だがその素朴さは、ただ議論の射程を封じ込めたいだけの「閉鎖」だった。本を愛するならその背後の思想や文脈を語る自由もある。感想交換に縛られる必要はないと私は返した。議論を封じるための「素朴アピール」を、逆に読書の可能性を狭める不寛容として暴き出す。
相手はここで方向を変え、人格攻撃に舵を切った。リアルでも嫌われているに違いない、議論しかできないからコミュニケーション力が欠けているだろう、と。これは分かりやすい。内容に応答できないとき、人は相手の人間性に矢を向ける。だが私は冷徹に切り返した。「論点は私の人格ではなく、あなた自身の発言の妥当性です」と。戦闘モードにおける最大の鉄則は、相手の攻撃を「論点ずらし」として弱点に変えること。彼らが攻撃すればするほど、論点から逃げている証拠を自ら差し出すことになる。
やがて「不愉快だった」という感情だけの爆発が現れた。これはもう議論の言葉ではない。ただの感情の叫びだ。私はそこに冷ややかに言葉を置いた。「不愉快と叫ぶのは、内容で応答できない自白です」。炎上の場では、感情を投げつけた時点で勝敗は決している。言葉の妥当性を問う者に対して、感情だけで返すことは、論点からの完全撤退を意味する。
それでも攻撃は終わらなかった。陰でボロクソに言う人も現れた。直接は絡まないが「見ていて不愉快」とだけ表明する。だが「見ていて不愉快」だけでは何の具体性もない。それをどうしたいのか、議論として差し出すつもりがあるのか。それを問うと相手はまた黙る。結局、批評ではなく感情の吐露に過ぎないことが露呈する。
さらに別の角度からの非難。「あなたのせいで小説以外のジャンルに嫌悪感を持つようになった」。これもまた責任転嫁の典型だ。読書の自由は受け手にある。他人の言葉を理由に自分の嫌悪を正当化するのは、自分で自分の読書を狭めているにすぎない。私は「読書の世界を狭めたのは私の発言ではなく、あなた自身の受け取り方だ」と返した。相手はここでも答えを返さない。
最終局面では「迷惑だからやめろ」「望んでない人に絡むな」という声も上がった。これは公開の場を私的空間と勘違いした物言いだ。公開の場に発言する以上、公開の場で反応が返ってくるのは必然。それを「迷惑」と言って封じるのは、議論を放棄する言葉でしかない。私はあえて冷徹に言葉を突きつけた。「公開の場に書き込む以上、公開の場で答える。それが筋だ」と。
そしてとうとう「これが白旗と受け取られても結構です。不愉快なので関わりません」と、相手自ら白旗を掲げた。ここに至って、私は勝敗を確定させた。「不愉快を理由に議論を放棄し、白旗と自認された以上、結論は明らかです」と。相手は最後に「失礼します」と書き残して去っていったが、その言葉こそが敗北の烙印である。
こうして今日一日の戦闘は終わった。私は人格攻撃を一度もしていない。問いを投げ、論点を固定し、妥当性を問うたのみだ。それに対して返ってきたのは、ラベルの言い逃れ、感想だからセーフという免罪符、人格攻撃、感情爆発、責任転嫁、迷惑カード、そして白旗。相手はあらゆる手段で論点から逃げようとした。だが、その逃げこそが論点からの敗走を証明する。
疲労はある。確かに当たり屋を相手にしたような徒労感も残る。理論も常識も届かない壁に向かっている感覚もあった。だが同時に、冷静に分析すれば、今日一日の応酬は「論点をずらす側」と「論点を固定する側」のせめぎ合いであり、最終的に逃げを選んだのは相手だった。私はその場に問いを立て続けることで、議論の形を守った。
炎上と収益の関係を考えると、この一連の出来事自体が生きた教材だ。炎上の中で最も消耗するのは「人格攻撃」に引き込まれることだが、そこに乗らずに論点を保持すれば、外野には冷静さが伝わる。炎上は疲弊でありつつ、同時に「耐える姿勢」を可視化する舞台装置でもある。私は今日、そこに身を置き、勝ち残った。
それが正しいかどうかは分からない。だが少なくとも、人格攻撃に沈黙しなかったこと、感情の爆発に巻き込まれなかったこと、論点を終始問い続けたこと。それは日記として記録に値するだろう。
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メモ
『リキッド・モダニティ』
“(・・・)近代的生活、近代的環境の特徴には、ひとつだけ「あたゆる差異をつくりだす差異の元」、あるいは、あらゆる属性を生む属性の元として、ひときわ目立つものがある。それは空間と時間の変化しつづける関係である。” P12
『身銭を切れ』
“ここで定義する(そして本書全体で使われている)「身銭を切る」という言葉の意味を、単なる金銭的インセンティブの問題と誤解しないでほしい。金融の世界でよくいう利益の分配の話ではなくて、むしろ対称性の問題だ。” P20
ダウンサイド・・・潜在的損失
“「リスクを負わぬ者、意志決定にかかわるべからず」 “P31
“歴史的に、武将や戦争屋たちはみな自分自身が戦士であり、いくつかの面白い例外を除けば、社会的なリスクを転嫁する連中ではなく、リスクを冒す人々が統治してきた。” P32
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『なぜ僕は「炎上」を恐れないのか 年500万円稼ぐプロブロガーの仕事術』
“(・・・)ぼくは、プロのブロガーとして「新しい価値観を伝える存在であろう」と考えている人間です。新しい価値観を伝えようとしているのに、それをみんなが共感して「いいね!」ボタンを押してくれると、自分の先見性のなさ、凡庸さに辟易するのです。” P158
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『自由論』
“現代人は、他人事ばかりでなく、自分だけにかんすることであっても、また独り言でも家族の会話でも、こんな問いかけをしない。ーーーすなわち、自分はいったい何をしたいのか。何が自分の性格や気質に合っているのだろうか。どうすれば、自分のうちにある最高で最良の部分が十分に活動でき、その成果を開花が可能になるのであろうか。” P148
“現代人は、世間の慣習になっているもの以外には、好みの対象が思い浮かばなくなっているのである。現代人は、このように、精神が束縛されている。娯楽でさえ、みんなに合わせることを第一に考える。” P149
自由とは・・・物事の善悪を自分の力のみによって考え、自分の力のみによって行動に移すことである(イケダハヤト)
“独創性が人間の社会において貴重な要素であることは、誰も否定しないだろう。新しい真理を発見する人、かつての真理がもはや真理ではなくなったことを指摘する人が、かならずいなければならない。しかし、さらにまた、新しいことを始める人、より賢明な生活態度とより洗練された趣味や感覚を示して模範となる人、そういう人もいなければならない。” P156
“独創性は、独創性をもたない人間にとっては、何のありがたみも感じられないものである。それをもっていれば何の役に立つのか、彼らにはわからない。わかるはずがない。彼らにわかるようなものなら、それは独創性ではないからだ。” P159
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『資本主義にとって倫理とは何か』
“問題に真に関わるためには、その基本的な制度の構造に関わる道徳的妥協を明確に示すことが必要となる。” P2
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『生そのものの政治学』
“主体化。われわれは、人間とは何か、何をなすべきか、いかなる希望をもちうるのかについての新たな思考の出発点にたちあっている。” P17
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